鶴木次郎のブログ はてなブログver

主にBlogger での同名ブログのコピペにて作成しております。

主に古墳についての雑談

A「最近はまた、思想系の書籍に代わり、日本古代史、考古学関連の書籍が面白くなってきました。
そして、考えてみますと、この考古学、日本古代史に対する興味とは、関東在住時には無く、南紀在住時の休日に周囲を散策するようになってから、自然と生じていったものです。
また、こうした興味と同時に「私は自分の国の古代に関して何も知らない・・。」ということに気が付き、その関連資料、書籍等を読むようになりました。
それでもなかなかこうしたことは、そう簡単に分かるようになるものではなく、また同時に、多少分かるようになったからといって、何か得をするというわけでもありません・・。
しかし、自分が住むことになった地域、場所において自然に生じた知的好奇心とは、やはり何かしら意味があるのではないかと思います。
そして、何となく現在までどうにか継続してきた次第です・・。」

B「・・はあ、なるほど、そうですか。
それで結局、Aさんはまた、和歌山に戻ることになったのですね?」

A「ええ、そうです。
そして、そのことを今考えてみますと、それが私の人生における一つの大きな分水嶺であったのではないかと思います・・。
とはいえ、以前にもブログにて記しましたが、私はかねてより文系の院に行くことを望んでおりましたので、ここで大きな意味を持つことは、それまでの自身のアイデンティティーがある首都圏の大学院、そしてヨーロッパ文化専攻に進まず、関西、西日本の大学院、そして地域学という分野に進んだことであると考えます。
また、そこでの様々な経験による、自身の精神、内部に生じた変化とは、不可逆的なものであり、その後に進んだ歯科技工学校から鹿児島の院に進んだことも、いってみれば、そうした変化に沿う自然なものあったのではないかと思います・・。」

B「うーんAさんはこれまでに北は北海道から南は鹿児島まで色々な場所に住んできましたが、次は一体どこに行くつもりなのでしょうか・・(笑)?」

A「・・ええ、それが分かれば本当に苦労はありません・・(苦笑)。
しかし、何処であれ、また古墳などの遺跡が多い地域、場所がいいですね・・。
南紀、和歌山の場合、住んでいた場所から徒歩五分程度で古墳がありましたので、そうした環境が考古学、古代史の面白さを私に教えてくれたと思いますので、次に住む場所も願わくは、そういった場所がいいですね・・(笑)。」

B「そういえば、Aさんが和歌山在住時に私が訪ねた際、そうした場所に案内していただきましたか?」

A「ええ、先程の近場の古墳に関しては近すぎて御案内しておりませんが、県内の代表的なものや、興味深いと思った古墳、遺跡には御案内したと思います。
また、南紀の興味深い古墳といえば、私のgoogle+のページの下段に西牟婁郡すさみ町にある「上ミ山古墳」で撮影した写真が掲載されていますが、ここはBさんを御案内したと思います。
この「上ミ山古墳」とは、和歌山県内に現存する古墳の最南端であり、同時に本州最南端に位置する古墳でもあります。
また、その立地は、海に突き出た半島状にあり、こうした古墳立地の類例は西牟婁郡白浜町の「火雨塚古墳」、日高郡みなべ町の「小目津古墳」あるいは御坊市の尾ノ崎遺跡も前に挙げた古墳の始祖的な存在であるのかもしれません・・。
また、この「上ミ山古墳」の興味深いところは、南紀に立地しながらも、その古墳造営様式が遠く九州の福岡南部、熊本北部において多く見られるそれに類似していることなのです。
そして、その類似している点とは、古墳玄室の天井がドーム状になっていることに加え、玄室の遺体を葬る区域を仕切る板石(石障)があることです。
さらに何かしら玄室内に装飾が為されていれば、決定的であるのですが、それは見られなかったようです・・。
とはいえ、この「上ミ山古墳」の造営様式とは、同時期に県北部の紀ノ川下流部南岸に盛んに造営された「岩橋千塚」に多く見られる特徴的な造営様式と明らかに異なり、そのことから両地域における葬送文化を含む背景文化全般が大きく異なっていたのではないかと考えさせられます・・。
また、前に出ました白浜町の「火雨塚古墳」には玄室内に組み合わせ式の石棺が設置されているのですが、この石棺の蓋部裏に文字(たしか大粒部)が刻まれているということなのですが、こうしたことは県内外を含めて類例が少なく、大変興味深いと思うのですが、あまり知られていないと思います・・。
ちなみに、この古墳も同じ機会に御案内したと思いますが、白浜の白良浜近くの半島いわゆる権現崎にある熊野三所権現神社の境内に立地しています。
また現存はしないのですが、北隣の田辺市にある平家物語にも登場する闘鶏神社のごく近くにも数基の古墳があったということなのですが、これもその立地などを考えてみますと、熊野三所権現神社の「火雨塚古墳」と類似しているのではないかと思います・・。
そして、こうしたことの背景には何かしら共通する葬送観念、生活文化が存在するのではないかと考えることがあります・・。」

A「・・はああ、なるほど、南紀の方には海に突き出た半島に古墳を造営するような傾向があるのですね・・。
もしかしたら、それらの古墳に葬られた方々は、在地、土着の海に関係する部族を統率する方々であったのかもしれませんね・・。」

B「・・ええ、たしかにそうである可能性は高いと思います。
しかしそれとほぼ同時代に、それらとは別の造営様式の墳墓が海岸部に築かれているのです(磯間岩陰遺跡)。
そして、そうした墳墓に葬られた方々も海に関係する部族の統率者であると考えられているのです・・。
それ故、もしかすると一言で海に関連する部族といっても色々とあったのかもしれません・・。
こうしたことも今後考えてゆくと、また面白いかもしれません・・。」