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親戚の師匠のことについて・・

A「本日は仕事にて近く(信濃町千駄ヶ谷)を通ったことから、昨年初夏に亡くなった親戚(叔父)にあいさつをしてきました。

昨年夏前に帰郷し、当時病床にあった叔父と様々な話をさせて頂いた記憶とは、私にとって大きな価値を持っております・・。

また、思い返してみますと、私の文系学問に対する興味のごく初期での動機付け、知的好奇心駆動の原動力とは、主に、この叔父による影響、感化であったのではないかと思われます・・。

また、他の兄弟においても古今東西の歴史・文化に対する興味とは少なからず持っておりましたが、私のようにはなりませんでした・・(そちらの方が良かったのかもしれませんが(苦笑))。

そして、私も後に兄弟達が進んだ医療系の学問分野(基礎)での研究活動を行うことになりましたが、様々な要因により、スムーズにその分野に入ることはありま(できま)せんでした・・。

この時のことは今現在になり考えてみましても、色々と腑に落ちないこともあるのですが、とりあえず学位取得にまでは至ることができました・・。
この時お世話になった皆様、どうもありがとうございます。

そして、この学位記を叔父のもとに持参すると、修士号取得時よりもかなり大きく喜んで頂き、それにより気を良くした(?)私は同じく学位記を持参し、東京都港区にある祖父母、兄が眠る墓、千葉県市原市にある、かつて(明治~大正期)小学校の校長、そしてそれ以前は沼津、菊間藩士であった御先祖の顕彰碑まで報告に行きました・・。

こうした行動から、おそらくこの当時もD2病のままであったのと思われます・・(苦笑)。

またそれに加え、生前の叔父の多くのハナシあるいはその眼差しから、どうも、こうした考えを惹起させる「何か」(酔わすもの・・?)があったのではないかと思われます・・。

そしてそれが、ある種の文系学問のエッセンス(先に投稿したブログ記事における歴史感覚)のようなものであったのかもしれません・・。

さて、さきに出ました顕彰碑ですが、帰郷以前在住していた鹿児島市内においても、こうした地元御出身の歴史的偉人の顕彰碑、石碑などが多く見受けられました(特に市内加治屋町)。

それらの顕彰碑、石碑などの配置から、明治10年(1877)の西南戦争において、西郷軍側として戦い亡くなった方々と、敵対する官軍側として戦い、その後、政府中枢の顕職に就いた方々の多くがごくごく近くに生まれ育ってきたことが理解できます・・。

このような地域とは我が国においては少ないのではないでしょうか・・?

そして、牽強付会であるかもしれませんが、そうした歴史背景を持つ地域に住んでいたことからもまた、帰郷後の私はそのような行動をとったのではないかと思われます・・(笑)。

以上のことから、私の背景には歯科医療系の要素が(多少は)存在するのであろうとは思いますが、それと同時に、同程度(以上)の文系学問の要素が存在するのではないかと思います・・。

それ故、手前味噌ながら考えてみますと、私とは、どちらの分野(歯科、文系)においても中途半端であると評されるかもしれませんが、一方、これは丁度良い適度の発露の配分(歯科、文系)を持っているとも考えることが出来るのではないでしょうか・・(笑)?

そして願わくは、今後あともう一つぐらいの学問分野において、そうした発露が出来る程度にがんばってみたいと考えておりますが、さて、どうなるでしょうか・・(笑)?

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震により被災された地域における諸インフラの出来るだけ速やかな復旧そしてその後の復興を祈念しております。」

jtsuruki.blogspot.jp