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コトバ・言語の解像能および詩、普遍とは・・

A「本日の首都圏は雨が降り、なかなか寒いものでした・・。

また九州の博多駅前にて地下鉄工事での何らかの異変により、道路の表面が陥没したとのことです。これにより怪我人が出なかったのは本当に幸いでした。

さて、昨日のブログ記事に記した「解像能」ですが、これは我々の用いるコトバ、言語に対しても便宜的にではあるかもしれませんが、用いることが出来るのではないかと思います・・。

つまり解像能が高い、低いコトバ、言語ということになります。
解像能の高いコトバ、言語とは、それを読み、聞くことにより、その述べる、言わんとするところがスンナリと容易に理解出来るといった性質を持つものであると考えます。

そして、解像能の低いものとは、その逆です。

そのように考えてみますとコトバ、言語ではありませんが、マンガとは、極めて解像能が高いといいますか、視覚即認識といったところがあるのではないかと思われます・・。

それに対し、音声言語、文字言語であれ、その内容理解に至るまでには様々な段階があるのではないかと思われます・・。

そして、本当にに良いコトバ、言語とは、一見容易にその内容が理解出来るものでありながら、同時に、そこに様々な抽象度の段階における理解、認識の仕方があり、また、それが各々充実した内容を持っているようなものではないかと考えます。

そこまで考えてみますと、私には未だその価値の深遠さを理解することは出来ませんが「詩」の価値などは概ね、そうしたところを基盤としているのではないかと考えさせられます・・。

その一方において、あくまでもコトバ、言語の第一義的な解釈、あるいは多義的な解釈をあまり為さしめないコトバ、言語によって記された、いや、構築された文章といったものが論文など学術的な著作一般ではないかと考えます。

しかしながら、考えてみますとこうして構築された論文などにおいてもまた、表層のみならず深層的な意味において「詩的」な文章を持つものがあってもまた面白いのではないかとも思われますが・・(笑)。

繰り返し、私は詩に関しては門外漢ではありますが、それでもさきに述べた「詩」の価値に基づいて考えてみますと、本当に「詩」あるいは「詩的な文章」にて良い、面白いと思われることは、それが作成された時から長く経た後においても、何かしらの内容、意味が認められるような、つまり普遍性に関連するものではないかと思います・・。

それは類似音、言語などの巧みな反復というような表層的、技巧的なものとは少し異なるのではないでしょうか・・?

そして、そのコトバ、文章が普遍性に触れるような(詩的な)内容、意味を持つようになるためには、個人は一体どのような過程を経るのが良いのでしょうか・・?

あるいは、たとえ目指すものが普遍性であったとしても、そこに至るまでの過程とは、各個人によって異なる個別性の高いものであるようにも思われます・・。

いや、もしかすると、それはいくつかのタイプぐらいには分類することが出来るのかもしれません・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の復旧およびその後の復興を祈念しております。」

jtsuruki.blogspot.jp