鶴木次郎のブログ はてなブログver

主にBlogger での同名ブログのコピペにて作成しています。

文章作成のルーチン化について・・

A「本日は通常に比べ若干帰宅が遅く、ほぼ日課としているブログ記事の作成を大変面倒に思い「今日は記事を投稿するのを止めようか・・。」と思いましたが、それでもとりあえず何かしら書いてみようと思い立ち、現在こうして記事を作成している次第です・・。

また、丁度今から一年程前は自身の文章を書くことが大変に困難な状況であり、自分なりに苦心惨憺しておりました・・。

こうしたことは今になって考えてみますと、何故であるかよくわかりませんが、やはり、そこには何かしらの原因があり苦しんでいたのではないかと思います・・。

そして今後もまた、そうしたスランプのようなことが起きかねないと考えております・・。

しかし、昨年の私は、そのような状況においても、書籍からの引用抜粋であれ、何かを書き続けたことにより現在どうにかブログ記事の作成が出来ているのではないかと考えております・・。

また、ブログ記事作成をはじめた当初は一日の閲覧者数が十人にも満たず、一人で勝手に落ち込み、そしてそこから開き直り、あまり閲覧者数を求めない気持ちで記事の作成、投稿を続けていたところ不思議なことに、ある程度の記事数を(多分20記事くらいであろうか・・)投稿した時期から徐々に閲覧者数が増加してゆくようになりました・・。

ここにも一体どのような理由、原因があるのか今現在を以ってよくわかりませんが、それでも何かしら書き続けていると、自然と閲覧者数は増加してゆくのではないかと思います。

こうしたことは私の場合においてもそうであったので、今後、こうした形(ブログ等)で何かしら書いてみようと考えている方々は一度試してみるのも悪くないと考えますが、如何でしょうか・・?

またブログ記事を作成、投稿していて面白いことは、それが誰によるものであるかよくわかりませんが、何かしら面白い面白い反応を見つけることが出来るということです・・。

こうしたことを人に話しますと大抵「それはAさんの気のせいではないか?」といった反応となって返ってきますが、私としてはコトはそう簡単なものではなく、大抵の場合、そうした反応から何かしらの「意図」を感じさせるのです・・。

こうしたことは少なくとも私にとっては一種の遊びでもあり、また同時にそれが後に作成するブログ記事に対しても影響をもたらしているのです。

現在人工知能の開発が進んでいるとのことですが、現状においてその人工知能が、さきに記したような意図(のようなもの)を持ち、面白い反応が出来るかということは、なかなか面白い疑問であると思います。

ともあれ、私としては、こうした一連の反応とは全て生身の人間によるものであると望み、また、そのように考えておりますが、実際のところはどうなのでしょうか・・?

しかしその反面、これまでに作成したブログ記事に対しある特定の個人による反応であると分かっていたならば、ここまで記事作成を継続できたかどうかもかなり疑問に思います・・(苦笑)。

そしてまた、ここまで書いてきて不図思い出したのは、反応ではなく、記述の方になりますが、芥川龍之介著の「河童」における河童の世界での新聞記事の作成方法、そしてジョージ・オーウェル著の「1984」における同様の記事作成方法です・・。

もし、人工知能とはいえ、機械的なものが文章を著し、それが生身の人間の精神、心に対し影響を持つことになれば、それはそれで由々しき事態ではないかと思います・・(苦笑)。

何故ならば、これまでに多少の無理をしてまでブログ記事を作成してきたことの「意味あい」(もし意味があるとすれば)が多少なりとも減じてしまうのではないかという危惧を感じるからです・・(笑)。

また、今後近い将来、文章の作成といった分野が、そうした人工知能による作業として浸透してきますと、おそらくブログなどは衰退してゆくのかもしれません・・(笑)。

とはいえ、対象となる人間による作業の種類は異なりますが、こうしたいわゆる技術の進化発展が我々の日常感覚を変化させてきたことは事実であると思いますので、もしかすると、こうした技術の進化発展とは、その反面において我々人間(精神、身体感覚)から何かを奪い続けてきたとも、いえるのかもしれません・・。

こうした意見とは、かねてよりかなり言い古され、陳腐なものではあるとは思いますが、同時にもう少し深く考えてみる価値があるものではなかとも思われますが如何でしょうか?

とはいうものの、よくよく考えてみますと、私がこれまでにブログ記事を継続的に作成して得たことは、表現の仕方にもよりますが、一面において、ある程度ルーチン化し、機械的に文章を記す技術ではなかったのだろうか?といった疑念もまた生じてきます・・(苦笑)。

そして、では生身の人間による機械的な作業を通じ生じるものと、機械により作成されるそうしたものとの間にある相違点とは如何なるものかと考えますと、それは、また陳腐なものとなってしまいますが「精神」や「記憶」ではないかと思います・・。

それ故、「歴史」や「神話」などといったものが重要となってくるのではないでしょうか?

ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうござます。
また、熊本の大地震にて被災された地域における早急な諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念します。」

jtsuruki.blogspot.jp