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鶴木次郎のブログ はてなブログver

主にBlogger での同名ブログのコピペにて作成しております。

ネガティブ・ケイパビリティ― 消極的能力・消極的受容力について・・

A「本日も若干帰宅が遅くなりました・・。

さて、昨日投稿のブログ記事に関連して思うことはネガティブ・ケイパビリティ―というコトバであり、これは和訳すると消極的能力、消極的受容力といった感じになるものと思われます・・。

そして我が国の通史的な傾向として、多くの史家、研究者等が指摘するものに上に示したコトバとも関連があると思われる「受容性」が挙げられます・・。

この「受容性」については、今更帰納法的に様々な具体的史実・事実を取り上げるまでもないと考えますが、たしかに我が国の持つ通史的な傾向の一つとして、この性質(受容性)が挙げられるものと考えます。

今までの自身のブログ記事においては、どちらかというと、内面からの「能動性」に多くの価値を払ってきたのではないかと思われますが、しかし、その能動性が如何にして、その場その場の現実に適合、噛み合い、駆動させる形で発露されるのであるかと考えてみますと、実はそこに、こうした消極的能力、消極的受容力の価値があるのではないかと考えさせられるのです・・。

そして、その意味において、多くの試練ともいえる苦行的なもの全般の持つ価値があるのではないかと思われます・・。

しかしながら、おそらく我が国においては総じて、そうした試練、苦行的なものに「のみ」価値を払う、認めるようになり、それ(試練、苦行)をさらに締め付けたり、解放したりといった「制御」(人知に関わる)の部分に関しては概ね、その出来具合が不明な個々の精神をも含めて大らかに扱い、あるいは専ら「神の見えざる手」に委ねているのではないかと思われるのです・・。

また、これにに関しては「いじめ」についても本質的には同様な考えが我が国社会の基層に根強く存在するのではないかとも思われます・・(良い悪いは抜きにして)。

そして、そうした古来よりの人間社会をも包括した我が国の自然観、社会観とは、人間と自然を切り離す傾向が強い欧米的な価値観とは本質的いや最終的にはソリが合わないのではないかと思われます・・。

しかしながら、明治から現代に至るまでの我々の近現代史とは、反動的な傾向を持つ時代(それはいつの時代にもあった)もありましたが、それは概ね段階的な社会の欧米化であったのではないかとも思われます・・。

またそれは国内地域においても時代により濃淡があるのではないかと思われます・・。

そして、そうした視座から現代の我が国の社会を眺めて見ますと、なかなか興味深い光景が広がっているのではないかとも思われるのです・・。

また、それはさておき、ここまで記してして、今回のブログ記事投稿により総投稿記事数が490に到達することに気が付きました・・。

そうしますと500記事まで残り10記事ということになりますが、全くそうした感慨もなく、おそらく500記事に到達しても、何かしら書き続けることになるのではないかと思います・・(苦笑)。

そしてそれが私なりの深層からの能動性により惹起せられた消極的能力、消極的受容力といったものではないでしょうか・・(苦笑)。

いや、案外これが大事であるのかもしれない・・(笑)。

何れにせよ、今後も気負うことなく、思ったことを記し続けようと考えております・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございました。

さる熊本、山陰東部そして昨今の福島周辺にて発生した大地震にて被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」

jtsuruki.blogspot.jp

「ネガティブ・ケイパビリティ―」と「能動・積極性」の微妙な兼合い、関係

A「ここ最近また一段と気温が冬めいてきました・・。
この時期になりますと、どうも書籍を身を入れて読むことが出来なくなるのかもしれません・・(苦笑)。

そのためか、先日読了した「楡家の人びと」以来、これといった著作に出くわすこともありません。

しかしながら週末には大体書店に出向き、何かしら探しておりますので、今後またしばらくしますと、自然と次に読むべき著作に出くわすのではないかと、前向きに考えております・・(笑)。

しかし、そうしたことを意識的に見ますと、この書籍などを読み「面白い!」と感じる源泉とは、一体何であろうか?と思うに至ります・・。

おそらく、この感覚とは変化し続けるものであるのでしょうが、それと同時に、各々場面の状況においても、ある程度、有意な影響を受けているのではないかと思われます・・。

また、それと同時に、昨今、いや、かねてより「書籍を読むことは大事である」といった意見は巷に流布され、また、そうした傾向が社会において生じ続けております。

しかしながら、さきに記した「書籍を面白いと感じる源泉とは何であるか?」という疑問に即し考えてみますと、同じくさきに記した「書籍を読むことは大事である」という社会傾向とは、各々場面の状況として果たして必要であるのか?と思ってしまうのです・・。

つまり「書籍を読むのが本当に好きであるのならば、わざわざ社会の傾向により読書などを促される必要性はない」ということです・・。

また、それに加え、その時々で、自身が面白いと思う書籍を探すことの方が、より一層能動性に即した行為ではないかとも思われるのです・・。

しかしその一方において「書籍を読むことは大事である」という社会傾向の継続により(本当に)書籍を読むことが好きな人が徐徐に増加していくのかもしれません・・。

これは今現在の自身が、この社会傾向により恩恵を受けているとは感じられないことから、幾分斜に構えて見てしまうのかもしれません・・(苦笑)。

いや、あるいはここにもまた、以前投稿したブログ記事にて記した「ネガティブ・ケイパビリティ―」と「能動・積極性」の微妙な兼合い、関係といったものがあるのかもしれません・・。

そして、ここで思うことは、感覚的な私見とはなりますが、様々な行為・行動をとる上で「ネガティブ・ケイパビリティ―」と「能動・積極性」の双方共に重要であったとしても、特に我が国社会においては全般的に古来より「ネガティブ・ケイパビリティ―」優位ではないかと思われるのです・・。

そして、おそらくそうしたことが、国家間の様々な文化・風習・制度の相違の根源に近い部分に横たわっているのではないでしょうか・・?

しかしながら、こうしたことはかねてより云われており、陳腐なことではあるのかもしれませんが、同時に「書籍の選択」を背景の文脈として思ったこととしては、古今類例があるのでしょうが、それなりに意味があり、また、たとえ、なかったとしても物笑いのタネにはなりますので、それなりの意味はあるものと信じ、書き続けます・・(果たして本当そうであるのか?)(苦笑)。

さて、では何故、国々の間において「ネガティブ・ケイパビリティ―」あるいは「能動・積極性」優位の社会が形成されてきたのかと考えてみますと、その理由とは単純に「その辿ってきた歴史にある」ものと考えられます・・。

そしてハナシがここに至りますと「唯物史観」「構造主義」といったコトバが脳裏に浮かんできて、さらに続いて「下部構造が上部構造を決定する」といったコトバもまた浮かんできます。
しかし果たして、こうしたハナシ(歴史、文化などの比較)とは、そこまで公式化出来るものであろうか?とも考えさせる、あるいは疑問を生じさせる「きっかけ」こそが、能動的な書籍の選択、そしてそれに続く読書の意味ではなかろうかとも考えさせられるのです・・。

とはいえ、そうであるからといって我が国社会が全般的に「ネガティブ・ケイパビリティ―」優位であると考えることに対しては未だ(能動的な)疑問を抱けないのが現状であるといえます・・(笑)。

しかし、それも決して悪いことばかりでもないのですが・・それでも悪いところが以前(昭和時代)に比べ目立つようにはなってきているのかもしれません・・。

そうしますと、これは「ネガティブ・ケイパビリティ―」と「能動・積極性」よりさらに奥、基層にある何かの変化、劣化によるものであるのでしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んでいただき、どうもありがとうございます。

さきの熊本、山陰東部、福島周辺にて発生した大地震より被災された地域の諸インフラの早急な復旧、そしてその後の復興を祈念します。」

jtsuruki.blogspot.jp

色々とハナシは飛びますが・・

A「先日投稿したブログ記事にて2013年9月、鹿児島からの帰郷時における原宿付近での出来事を記しました。

そして、現在ではその出来事にある行動を採ることは困難であるように思われます・・。

むしろ、現在となっては、何故、当時(2013年9月)は、そのような行動をスムーズに採ることが出来たのか?の方が不思議に思われるのです・・。

そう思い返してみますと2013年当時の私と、現在2016年の私の間には大きな相違があり、さきのブログ記事に記した状況における対応、反応に限定して云えば別人になってしまったと表してみても決して言い過ぎではないと思います・・。

また、こうしたことをわざわざ(掘り返してまで)言語化、文章化することとは、どこかしら若い頃の悪行を自嘲・自慢半分半分で語るオジサンを連想してしまい、2013年の行為、現在の(そのことを言語化、文章化する)行為、共に我がことながら、あまり感心することは出来ません・・(苦笑)。

では何故、現在私がこの過去の「愚行」を再度ブログ記事の題材としているかのかと考えてみますと、それは、過去の自身(の特に行動)が理解出来ないことは、それが夢や架空の出来事でないのであれば、かねてより当ブログ記事にて歴史(過去の実際の出来事)の重要性を力説、標榜している私としては「灯台下暗し的な盲点」として認識されることにより、もう少し、その意味を考えてみた方が良いと思われるからです・・。

それ故、ハナシは元に戻し、具体的に2013年9月と現在の私の間には如何なる「相違」が認められるのでしょうか・・?

この問いに対し即座に感覚的に思い起こされる、一連のブログ記事にて用いてきたコトバとは「D2病」です・・。

端的に云えば2013年9月の私とはD2病の真っ只中にあり、それに対し現在の私とは、少なくともそこから大分寛解しているのではないかと考えます。

そして、それが両時期の間に見られる顕著な相違であり、また現在では理解不能な程の断層を生じさせる要因であるとも思われるのです・・。

とはいえ、ここで不思議に思うことは、2013年9月の出来事も現在と同様、自身の経験・記憶でありながら、何故、前者に関しては、その行為を行わしめた背景である、当時(2013)の精神、心の現実性を感覚的に内面から理解することが出来ないのであろうか?ということです・・。

そして、そのような状況を異なる視点から考え、さらに説明可能なコトバの抽出を試みますと、そこに「憑き物」「憑依」「Obsession」といったコトバが浮かんできます・・。

また、上に示したこれらコトバも以前投稿したブログ記事にて述べたことがありますが、そうしますと2013年当時の私は何かに「憑かれていた」とも表することが出来るのではないかと思います・・。

では、何に憑かれていたのかと考えてみますと、これもまた以前のブログ記事にて述べたものではありますが「Erdgeist」つまり「地霊」のようなものではなかったのだろうかと思われるのです・・。

また、この考えから更に歩を進めてみますと、この2013年の状態が、これもまた以前ブログ記事に記しましたが、「ハレ」(ハレ・ケガレのハレ)の状態であったのではないかとも思われるのです・・。

さらに加え、それはまた「躁的状態」ともまた、大きな関連性があるのではないかとも思われます。

以上、2013年9月の自身に対し思ったことを述べましたが、この後の反動とはかなり大きなものであり、自身の生命力に少なからぬ危惧を抱く結果となりました・・(苦笑)。

もしも(一定、有限の)生命力の「燃焼」の程度に差があるとすれば、この時の私とは、相対的に見て強く燃焼していたのではないかと思われるのです・・。

そして、再びそうした状態になった場合、今度は上手くヒット・ポイントをずらし、持続可能性を維持することが出来るのではないかと、これまでのブログ記事作成での経験を通じ何やら得たような感じがしなくもありません・・(苦笑)。

しかし、実際のところは本当にそうなのであろうか・・?

また、これも畢竟、主観的仮説の積重ねであるといえば、そうであるので・・(苦笑)
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部そして先日の福島周辺において発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」

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概論と各論・演繹と帰納そしてそれらの調和

A「先日必要に迫られ、かつて専攻した分野の用語辞典を引っ張り出しました。

そして、不図脳裏に浮かんだ、以前学んだものの、現在は意味が分からない、ある用語の意味を調べたところ、不思議なことに辞書引きの最中、その用語の意味が段々と思い出され、辞書引きを終えた時には、その項目を読む前にその大体の意味が思い出されておりました・・。

こうしたことは、不思議であるかもしれませんが、多くの方々もまた似たような経験をされているのではないでしょうか?

また、そこで大事であると思われることは「既にその用語をどこかで学んでいた」ということではないかと思います。

それがなければ、おそらく、その意味を辞書引きのさなかに想起することはなかったのではないかと思います。
また、同時に、かつて学んだことがなければ、それはたしかに「より」不思議、神秘的な出来事であったと思われます。
ただし、それは「思い出す」「想起する」とは、異質なものであるともいえます。

ともあれ、そのようなことから、一面において「学ぶ、研究する」とは、そういったもの、つまり、意識したことを無意識化することではないかと思いますが如何でしょうか?

そして、こうしたことは何も学問、勉強に止まらず、日常生活の様々なことがらについても同様にいえるのではないかと思います・・。

また、それに加え、昨今、その重要性が増していると思われる「専門知識」とは、そのような過程を経て学び、研究することにより得られた「知識の体系」であるのではないかと思われます。

その意味において、特に人体という人類において普遍性を有する分野を扱う医学分野における知識および知識体系とは、その典型であるのかもしれません・・。

また、一方において、歴史などといった古くからの文系学問における知識、知識体系とは、人体、医学などにおけるような普遍性を持つ要素が相対的に少ないため、典型的な専門知識として認識され難いのかもしれません・・(それが現今我が国における文系学問分野軽視の原因ともなっているのではないかと思われます。)。

また、同時に、それらの学問(医学に代表されるような理系学問と古くからの文系学問)を教授、学ぶ上での方法論においても、そうした違いがあるようにも思われます。

つまり、理系学問分野における序論、概論よりはじまり各論に至り、適宜その反復を行うことにことにより、その学識を深めてゆくというような、いわば演繹的な方法・・。

その一方、文系学問分野において多く見られる各論ともいえる個別的な事柄の探求を通じ、その研究分野における概論、全体像を把握しようとするような、帰納的な方法といった違いに、何かしら関連性があるのではないかと思われます。

それらは、無論、双方共に重要ではあるのですが、それらの基本的な方法論の相違とは、ひいては、様々な事柄に対し得られる認識の相違そしてさらに、相互の無理解などにも至ることが多々あるのではないかと思いますが如何でしょうか?

そしてここまで書いていてウンベルト・エーコの「薔薇の名前」の作中人物のコトバ「全体性の中に個別性があり、また個別性の中に全体性があることこそ、世界の調和が示されるのである。」といったことを想起しましたが、これもまた、何かしら上記のことに関連があるのではないかと思いましたが、如何でしょうか?」

ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
また、熊本の地震で被災された地域の皆様の暮らしが早期に復旧、復興されることを祈念しております。

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呉爾羅(ゴジラ)から思ったこと・・生贄・人身御供

A「首都圏および関東地方においては本日夕刻より雨が降り始め、これが明朝にかけては降雪に変化するのではないかとのことです・・。

ここ最近若干この季節にしては温暖と思える日が続いた後、突如こうした天候、気温になるのは、正直あまり嬉しいものではありません・・。

とはいえ、その一方で少し嬉しかったことは昨日投稿したブログ記事が投稿翌日ではあるものの、少なからぬ閲覧者数を得たことです。

これを興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます・・。

そして、本日はそうした状況に促され、ブログ記事作成をはじめた次第といえます・・(笑)。

さて、以前もブログ記事にて記しましたが、ここ最近映画(DVDを含む)を観る習慣を無くしておりましたが、昨日、何を思ったか、かなり久々に映画作品をDVDにてレンタルして観ました。

その映画は1954年に公開されたモノクロ版の「ゴジラ」であり、この作品は、以前何処かで観た記憶がありましたが、最近色々と話題になっておりますので、その元祖を観てみようと考えた次第です・・(笑)。

さて、この作品からの所感、感想とは、先ず、出演されている俳優陣(エキストラを含む)の顔、身体の動きが21世紀の現代と随分異なるのではないかということです。

次いで、作中内のセリフの背景に古来よりの我が国の民俗を(強く)感じさせるということです・・。

一番目につきましては、各々作品をご覧頂いて判断されるのが良いと思います。

また、二番目につきましては、具体的には、ゴジラが当初「大戸島」(架空の島、伊豆七島あたりがモデル?)の漁船を沈め、またその漁場を荒らした状況で村の古老が
「これは古い言い伝えにある呉爾羅(ゴジラ)の仕業に違いない・・」といったところ、島の女性が「また爺様のゴジラがはじまった(笑)」と返し、それに対し古老が「古い言い伝えをバカにしていると、いつかお前ら「あまっこ」(女性)を呉爾羅(ゴジラ)の生贄として差し出さなければならなくなるぞ!」と怒気を含んで言い返していたところです・・。

こうしたやりとりとは、現在では(おそらく)あり得ないのでしょうが、おそらく昭和20年代においては(地域によっては)自然なものであったのではないかと思われます・・。

あるいは、それは1933年(昭和8年)のアメリカ映画「キングコング」の舞台設定とも類似する部分があるとも思われますが・・。

何れにせよ、科学知識が発展する以前、さまざまな自然現象の作用機序が分からない状態において超自然的、人知では解決不能と思われる災害現象が発生した場合、広く我々人類とは、その現象を支配する存在を何かしら見立て、それに対し様々な種類の祈願・祈祷を試み解決を図ってきたようです・・。

そして、その中の一つが人身御供つまり生贄です・・。

以前、私はそうした祈願・祈祷の一つである「雨乞い」について調べたことがありましたが、そこでもこうした種類のハナシには少なからず出くわしました・・。

とはいえ「雨乞い」において何かしらの生贄を捧げる場合とは、概ね一地域にて数段階に種別される「雨乞い」手段・方法の中でも、最終段階近くにて用いられる、いわばとっておきの手段・手法であることが多かったです。

そして、そうした意味からも、この映画内状況(大戸島の漁村)での呉爾羅(ゴジラ)出現の重大さが示されるのではないかと考えられます・・。

また一方、私は今年公開された「シンゴジラ」は観ておりませんが、作中にこうした民俗あるいは土俗性と結び付ける要素は見受けることは出来ないと考えております・・。

とはいえ、そうした要素とは作中に描かなくとも困ることはありません。

しかし、そこで危惧されることは、かつて我々もまた、こうした祈願・祈祷の手段・手法を採っていたことを忘れてしまうことにより、今後、未知の災害現象が発生した場合、(忘れてしまっているので)再び無意識的な歴史での記憶に則り、現代では常識から考えて無意味ともいえる生贄・人身御供を捧げるような始末になるのではないかということです・・。

時折、我々にはそうした傾向が強くあるのではないかと思うことがあります・・。

それ故、さきに記したゴジラ作中内、大戸島の古老の怒気を含んだコトバに関心を持った次第でもあります・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部での大地震および昨今の福島周辺における地震にて被災された地域の早期の復旧そして復興を祈念しております。」

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読書の種類、環境の変化と文章の作成について・・私見

A「ここ最近読み進めている、どちらかというと理系分野の著作を読んだ直後とは、少なくとも私に関しては、あまりこうしたブログの文章が(相対的に楽に)思い浮かばなくなるようです・・。

これはここ最近(のみ)の傾向であるのか、今後更なる検証が必要ではありますが・・・。

あるいは、これは単なる経験(N)不足によるものであるのかもしれませんが・・。

しかし、傾向としては、やはり何かしらの文学作品あるいは文系分野の著作を読んでいる時の方が、あまり一つのコトバ(の厳密な意味)に捉われず、あるいは文章の簡潔化にも捉われることなく、何と言いますか、伸び伸びと文章を書けるような感じがします・・(笑)。

そして、もし、こうした傾向が実際に内部において存在するのであれば、やはり私は元々文系の人間ということになるのでしょうか・・?

もちろん断定は出来ませんが・・。

とはいえ、こうしたことに関しては、他者の御意見をあまり聞いたことがないため、どうもイマイチよく分かりません・・。

自分自身のこととは、相対的にはなかなか分からないこともあるものです・・(苦笑)。

しかし、その一方で思うことは、何かを読んだり、聞いたり、あるいは誰かと話しますと、理由はよくわかりませんが、文章などの主題を思いつく、ひらめくといったことは(比較的よく)あるのではないかと思われます・・。

そして、その反対といったこともまた、あるのかもしれませんが・・(苦笑)。

その点において、ここ一年程度の周囲の環境とは、果たして好ましいものであったのでしょうか・・?

あるいは、そうした環境に慣れて(しまい)、ここまでどうにかブログ記事作成を継続することが出来ているのでしょうか・・?

そして、今後もし何か(大きな)環境の変化があった場合、それに適応し、記事などといった文章作成を継続することができるのでしょうか・・?

・・こうしたことを考えてみますと、多少不安になってくるものです・・(苦笑)。

しかし、それと同時に、採用されれば必然的に環境が変化すると思われる大学職種の公募に応募しようというのは、これまたさきに述べた不安(環境の変化により文章作成の継続が図れるのか?)と矛盾するものではないのだろうか・・(苦笑)?

しかしながら、その前段階で、このブログ記事作成を開始した主な理由とは、自身の文章を書けなくなったことに対する適当な解決策として周囲の方々に勧められ、また自身もそれに納得、同意したことにより、それは文章作成における環境の変化への心配以前のものであることから、それ(環境の変化)が本心から自身の望む環境の変化であるならば、たとえ文章を一時的に書くことが困難となったとしても、これまでどうにか継続してきた何かしらのコツらしきものを頭よりも身体の方が記憶しており、再度何かしら(案外早く)書くことが出来るようになるのではないかと思います・・(笑)。

とはいえ、こうしたことも冒頭に述べたように、その後の検証が必要であるとは思いますが・・。

どうも、ここ最近は自身の内部に対する興味関心を述べてきてしまいましたので、今後少し趣向を変えてみようと思います・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震により被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」

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文体および記事更新の頻度に関して思ったこと・・

A「先日来より記してきた記事にて用いた硬質な文体とは、記した後の疲労感が、そうでない文体にて記した場合と比べ、多少大きいと思われることから、一旦この文体にて記すことを止め、以前からの文体にて記してみようと思います。

また、それと同時に、自身の記す文体とは、その同時期に読んでいる書籍の文体からの影響をも少なからず受けるのではないかと思われます。

それ故、英語の書籍を読んでおりますと、その時に記す日本語の文体とは、英文和訳のような、いささかぎこちないともいえる文体となるのではないかと思われます・・(笑)。

そのように考えてみますと、直近まで用いてきました硬質な文体とは、現在の私にとって、その出だしにおいては調子が良いのかもしれませんが、どうもその継続が困難であり、且つ、この文体においては、文章の記述方法(内容ではない)における創造、あるいは良い意味での脱線が生じにくくなるのではないかと思われます。

それ故、私見ではありますが、おそらく論文などで多く見られる硬質な文体とは、このブログ記事のような即興的な散文に適したものではなく、時間をかけ、推敲に推敲を重ね、内容に矛盾、論旨に破綻が生じないように作成するカチッとした論文にこそ相応しいのではないかと思われます。

また、読み手側としても、硬質な文体にて記されたものは、そうでないものと比べた場合、若干読む際の疲労の具合が異なるのではないかと思われますが如何でしょうか・・?

さて、ブログ記事の文体については、このあたりにします。

今回投稿する記事により総投稿記事数が460となります。
先日の450記事到達から考えますと、これは早いのか、遅いのかよく分かりませんが、何れにせよ、お蔭様でまた一つの里程標を目にすることが出来ました。どうもありがとうございます。

また、そうしますと、残り40記事にて500記事に到達する次第ですが、今年が残りあと70日未満ですので、現在のペース(1日1記事)にて記事を作成し続けることにより、特に無理なく、年内に500記事に至ることが出来ると思われます。

そして、この500記事に至りましたら、ブログ記事の作成を一旦、意識的に止めてみようと思います。

そして、そうすることにより、自身の内外に何かしら多少の変化が生じ、それを感じ取ることが出来るのでしょうか・・?

これは正直なところ自身のことではありますが、苦労して作製した試料を試験機にかけ、さらにそれ(試験機にかけた試料)を電子顕微鏡にて観察する時のような好奇心が惹起することが認められます・・(笑)。

また、ここまで記しており不図思い起こしたことは、かつての鹿児島在住時、ミクシィというSNSにて、こうした文章、記事らしきものを作成していたのですが、その際は記事も現在投稿しているブログ記事よりも全般的に短く、また週1回程度の更新であったことです。

その時から比べますと、現在のブログ記事更新の頻度とは、劇的に増加しており、またそれが私が鹿児島在住の期間において進化発展した能力の一端ではないかと考えられます。

また、こうしたことは、おそらく外観からの認識が困難ではないかと思われます。

とはいえ、作成者自身からしますと、この間には明らかに何かしらの内面での少なからぬ変化が生じたのではないかと思われるのです・・。

こうした変化を的確(しかも、この場合の的確とは何か?)に言語化、文章化することは果たして可能なのでしょうか・・(笑)。

そしてまた不図思ったことは、おそらくこうしたことは、これまでいくつか過去の出来事をブログ記事として言語化、文章化することにより、はじめて思い起こし、考えのようなものとして、述べる、記すことが出来るようになったのではないかということです・・。

そうしますと今度はゲーテ
「歴史を書くのは過去を脱却する一つの方法である。」
あるいは同じく
「人間の最大の値打ちは、人間が外界の事情にできるだけ左右されず、できるだけこれを左右するところにある。世界の一切は、建築家の前にある大きな石切場と同じように、われわれの前に横たわっている。建築家の本領は、この偶然自然の石塊から、できるだけ経済的に、目的にかなうように、しっかりと、自分の心の中に生じた原型を作り上げるところにある。われわれの外部にある一切のものは要素に過ぎない。否、われわれにくっついている一切のものも要素に過ぎないと言ってよいだろう。しかし、われわれの奥深くには、あるべきものを創りだすことのできる創造力がある。その力は、われわれが、あるべきものを、われわれの外部に、あるいはわれわれの身辺に、何らかの方法で現すまでは、われわれを安らかにさせない。」
といったコトバを思い起こさせます。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震における被災地の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」


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470記事到達 文学から歴史 歴史から文学

A「お蔭様で昨日のブログ閲覧者数も1000人に到達しました。
また、それと同時に今回の記事投稿により総投稿記事数が470に到達します。

そうしますと、残り30記事にて500記事へ到達ということになりますが、これは直近の450記事から考えてみますと、今回の470記事到達とは、割合早かったものと感じております。

そして、年内中に500記事到達までの残り30記事の投稿ということになりますが、今年は残り50数日でありますので、まあ3日に2日程度の頻度にて新記事の投稿、更新を行っていけば、特に無理なく年内中に500記事に到達することが出来そうです。

とはいえ、そこであまり気を抜いてしまいますと、後になり、しわ寄せが来ますので、出来る限り毎日に近い状態にて500記事到達まで記事作成、投稿を行って行こうと考えております・・。

さて、先日より読んでおります北杜夫著「楡家の人びと」は第二部も先ほど読了しました。
第二部は昭和16年(1941年)12月の太平洋戦争開戦すなわち真珠湾攻撃のあたりでハナシが終わっており、これが次の結末たる第三部にどのように続くのか楽しみです・・。

また、こうした長編小説を母国語にて著すことが出来る歴史・文化を持つ我が国とは、やはり様々な点において優れた要素を持っているのではないかと改めて考えさせられます・・。

しかし、そうは云いましても文化というものは、おそらく発展し続けるものではありません(この著作が著された時代に比べ現代の我が国が発展しているとは必ずしもいえない)。


具体的な刺激、精神の活性ながどといった要素が減衰、欠如していきますと、それはやはり衰頽、荒廃してゆくものであると考えます。

そして、そうしたものとは経済、文化的にある程度までの発展を遂げると必ずしも直線的にではありませんが、必然的に衰頽、荒廃に向かって行くのではないかと思われます。

そして、それが様々な国家、地域などの興亡の歴史における大雑把な枠組みであるように思います。

もっとも、こうしたことは既にかなり陳腐なこととして認識されているとは考えますが・・。

ともあれ、このような興亡の歴史の流れを一つ認識し、それに対する認識をさらに深化させるという意味において、さきに挙げた「楡家の人びと」とは、適当な材料になるものと考えます。

そして、このように何か一つの題材を深化させる過程において、必然的に近現代史から文学に結節、あるいは逆からのアプローチであれば文学から近現代史に結節するというのが一般的な文系学問の研究における見取り図であるように思います。

やはり、こうした意味でのタコツボ化とはあまり良いものではないと私は考えます。

ともかく、いくつかの分野において、ある程度の認識に達しますと、何といいますか、自然とそれら分野の認識の深層の方から根が生じ、それらが深層において絡み合うことにより、何とも表し得ぬ極めて個人的な学問体系が生成するのではないかと考えます。

こうしたことは、コトバを以て説明するより、実際にそういった人物の著した著作を読むことにより判然とするのではないでしょうか・・?

その私見による具体例として南方熊楠金関丈夫などが挙げられると考えます。

また、多少スケールが異なりますが、これまでにブログ記事にて記した私の師匠の方々もまた、皆、そうした傾向があるのではないかと思われます・・。

そして、ここまで記していて不図ゲーテの言葉を思い起こしましたので下に示します。

「ユーモアは天才の一要素である。しかし、それが勝ち過ぎると、天才の代用品に過ぎなくなる。それは、芸術の下落を伴い、ついには芸術を破壊し、滅ぼしてしまう。」

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本における大地震、昨今の山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」

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自己について・・

A「本日は日中気温が上昇し、多少暑くも感じました・・。

さて、先日電話口にて久しぶりに文系院時代の知人と話す機会を得ましたが、どうにか文系学問特有の世界、会話について行けたのではないかと思います・・。

しかし同時に、以前に比べ、色々と忘れている部分もあり、自身としては口惜しい部分もまた(少なからず)ありました・・・(苦笑)。

そして本日は、何人かの歯科医師の先生と話す機会を得ましたが、ここでもいくつかの歯科分野の会話にどうにかついて行けたのではないかと思います・・。

また、ここにおいてもさきと同様、少なからず忘れている部分があり、自身の勉強不足、記憶力の悪さが悔やまれました・・。

しかしながら、自身のことを誇るのわけではありませんが、こうしたいくつかの学問分野での(ある程度専門的な)会話について行ける私とは、一体何者であるのかと時折考えてしまいます・・(苦笑)。

ともあれ何れにせよ、その根本、基層には、いくつかの結節点を持つ文系学問の多少オカシイ(極めて個人的な)体系らしきものが存在するのではないかと思われます・・。

そして、このオカシイ学問体系とは、主に和歌山、東京そして鹿児島にて形成されました・・。

また、これは一応学位の分野としては「歯学」となっておりますが、取得後の経緯などを踏まえますと、私個人の意見として時折「こうなってしまった以上、分野などは別に何でもいいのではないだろうか?」と考えてしまうことがあります・・(苦笑)。

果たしてこうした意見とは(私の場合)傲慢不遜なものなのでしょうか・・?

しかし、それはともかくとして、現在ここまでブログ記事を継続して作成することが出来ている背景とは、さきに述べた三つの地域にて形成された学問体系らしきものに因ることは、たしかであると思われます・・。

あるいは異言すると、それら何れかの経験が欠けていても、それは出来なかった、出来ないと表することが出来ます。

そしてもちろん、投稿した一連の記事を読んで頂いた方々がいらっしゃったからという大前提が存在しますが・・。

とはいえ、こうしたブログ記事の作成に対して「のみ」それらの経験が生かされると考えるのもいささか悲しいものであり、そのため今後も自身の望む大学職種(主にコーディネーター、研究支援専門職員など)に応募するつもりです。

・・色々と考えてみましたが、どうやら私とは教育の過程によりそうなったのではなく、どちらかというと生まれつき(生来)に近い部分より多少オカシイところがあり、そのために様々な必ずしも必要でない面倒に遭遇することになりましたが、また、それと同じ理由により、さきに述べたようなオカシイ体系を持った私となり、また、それをどうにか認めてくれる方々にも出会うことができたのではないかと考えております・・。

そのように考えてみますと、他の運はさておき、二十一歳以降の人間運に関しては、私は相対的に見てもかなり恵まれている方ではないかと思うのです・・。
さて、如何なものでしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの速やかな復旧、そしてその後の復興、またそれに加え、昨晩に鹿児島県奄美地方において発生した地震による被害が出来るだけ軽微であることを祈念します。」

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文章、文体、認識の枠組みについて・・

A「先日より読んでおります北杜夫著「楡家の人びと」は第二部の200頁まで至りました。

こうした長編小説とは、ある程度期間のインターバルを設けて読むと、読書の進行が多少早くなるものであるのかもしれません・・(笑)。

また、この著作は自身の感想としては大変面白く、おそらくこの土・日曜日の間に第二部もまた読了に至るのではないかと思われます・・。

そしてその後さらに第三部(最終部)読了に至ったならば、今度は同著の英訳版を購入し読んでみようと考えております・・。

英訳された日本の小説とは、著作によっては(私にとって)大変高価なものもありますが、幸いなことに、この著作については比較的手頃な価格にて求めることが可能であるようです。

また、以前投稿したブログ記事においても記しましたが、この著作は、現代の若い方々が読まれると何か面白い、不思議な感覚、認識を得ることが出来るのではないかとも思います。

いや、こうしたことはむしろ一般的であり、あるいは論理一辺倒の科学的な論文などにおいても同様であるのかもしれませんが、我々とは、何かしらの著作、文章を読むことにより、肯定的、否定的であれ、そこから様々な感覚、認識を惹起します。

そして、その(感覚、認識の)蓄積、そしてそれらの精神内部における経時的な反応、化合等に加え、実際の経験を積むことにより、より大きな観念、思想といったものの核が徐徐に形成され、それが様々な形で文字、言語を以て表出されることにより、明瞭化、体系化された観念、思想と称するに堪えうるものとして顕現に至るのではないかと思われます・・。

そして、こうした営みとは無意識である場合も多いのではないかと思われますが、何れにせよ殆どの方々が日常的に行っていることであると考えます。

ただ、そこで特に重要であると思われることは、実際の経験とは、各人各様に日常生活を送る上にて得ているのでしょうが、それ(経験)を認識するための、あるいは認識の枠組み(言語化、評価)を形成するための基盤、母材(マトリックス)として、何かしらの文章そしてその文体の果たす役割の大きさということです。

そして、これが各人各様である経験をある一定の方向へ収斂するものであると同時に、その個性、特徴を発揮する基盤でもあるということは、なかなか面白いことであると思われます・・。

その意味において広告、出版業界とは、依然として、ある程度大きな影響力を我々の社会に対し有しているのではないかと思われます・・。

しかしその一方、さきのブログにおいても記した通り、昨今、インターネットの普及により、膨大な情報が容易に広く入手可能となり、これまでのマスメディア、新聞、出版業界が関与、把持してきた認識の枠組みの重要性が希釈されつつあるということもまた事実であると思われます。

とはいえ、この認識の枠組みの重要性とは本質的(人間に付随する能力としての価値)には、希釈される性質のものではないと考えます・・。

それ故、訪れつつある新しい時代においては、おそらく我々と文章そしてその文体(認識の枠組)の間にもまた、何かしら大きな変化が生じる、いや生じつつあるのではないかとも思われるのです・・。

それが如何なるものであるかは分かりませんが、あるいはこうしたこともまた、歴史の進行およびその方向性に対し、大きく関与しているのではないかと考えます。

また、それが古来より云われている「言霊」に関連するものであるのかもしれません・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震、昨今山陰東部にて発生した大地震により被災された地域の今後出来るだけ早期の諸インフラの復旧およびその後の復興を祈念しております。」

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