鶴木次郎のブログ はてなブログver

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総投稿記事が1175記事に到達して「人文社会科学系の意味・価値について」

おかげさまで先日3月23日投稿分記事である「対話形式2007年10月頃のこと」はその後、最近では珍しいほど多くの方々に読んで頂きました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。

また、それに関連があるのか、あるいは単なる偶然であるのか、この記事投稿後から、人文社会科学系マインドを持っているであろうと思われる方々から、ご連絡を頂くことが幾度かありました。

かねてより我が国では、何と云いますか歴史的な視点、考え、あるいは、たとえ話の題材として通常の会話、あるいは少し真剣な場にてそれを話すことを避けるような「何かよく分からない感覚」のようなものがあると思われます。

それは端的に、そうした話を持ち出すと、後の会話がギクシャクするような「空気」のようなものであると考えます。また、時折表明されるそうした考え、あるいは見方に対するリアクション(反動)であるのか、歴史に関する何らかの名称をコトバ遊びのように用いて、どうにかして笑い、あるいは軽いものに転化したがるといったtrait・習性のようなものがあるとも考えます。

そして、それは近年のインターネットの発達により、更に顕著になったと思われます。たしかにインターネットでの検索により、我々は瞬時に、より多くの知識を得ることが出来るようにはなりましたが、しかし、そうした状況に至って重視されることは「それら知識を用いてどのようなハナシ・物語を考え、述べることが出来るか」であると考えます。

しかしながら、こうしたハナシ・物語自体もまた、インターネットでの検索により、手軽に得ることが出来るようになっているのが近年以来の社会状況であると云えます。

そうしますと、たしかに「人文社会科学系、特に歴史などに関する学問、高等教育などは果たして、そこまで意味・価値があるのか?」といったご意見が自然に生じると考えられ、また、そうした意見は昨今の社会状況を鑑みるに説得力があると云えます。

実際、今後の社会、そして特に人文社会科学分野の高等教育を考えた場合、これまでとは異なる学部・学科編成に変えた方が、より社会に適合するのではないかと思われます。

また、それが実のところ高等教育における人文社会科学系学問の自然な姿であるようにも思われます。

しかし、であるからと云って、それは人文社会科学系学問を軽視するというわけでは断じてありません。むしろ今後の社会は、より洗練された、より科学的な、そして自然科学系学問に対して遜色のない我々の精神を栄養する編纂された歴史が生まれるのではないかと考えていたのですが、かなり悔しいことに、どうもそれが違うのではないかと思われるのです・・。そしてまた、こうした国内状況を、これまたさきに述べたインターネット検索による情報にて世界各国が知るようになり、また、そうした状況を踏まえて世界各国が我が国への対応をしつつあるように思われるのです。

そして、さらに、その遡った背景にある参照されているであろう我が国の社会について扱った文物を考えてみますと、それはジョージ・オーウェルの有名な著作のオマージュ的作品を著した国際的に高名な邦人作家の諸著作であるよりも、丸山眞男あるいは加藤周一などの著作であると考えます。こうしたことに関して、我が国全般は、もう少し認識を改めても良いのではないかとも思われるのですが、おそらく、そうしたことは為されないのではないかと考えます。

また、こうしたことは、目に見えて、あるいは即時に金銭・経済的損失などに結び付くことは少ないと考えられることから、引き続き「人文社会科学系、特に歴史などに関する学問、高等教育などは果たして、そこまで意味・価値があるのか?」といった、本音としての社会全般の傾向に至るものと予想されます。しかしながら、おそらくこれがボディ・ブローのように後々効いてくるのではなかかと思われるのですが、さて如何でしょうか。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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先日の陸奥宗光著『古今浪人の勢力』に関連した記述の抜粋引用

おかげさまで昨日投稿分の記事は、ここ最近では珍しいほど多くの方々に読んで頂けました。これを読んで頂いた皆さまどうもありがとうございます。また、その記事にて挙げた『競争的退行』というコトバは、かねてより組織内部での競争が盛んである我が国においては、国の全体的な勢力が退潮気味である現在では、より多く、一般的な現象としてさまざまな組織にて見出すことが出来るのではないかとも思われます。

また、先日抜粋引用した陸奥宗光中央公論社刊『蹇々録』収録 論説『古今浪人の勢力』もまた、多くの方々に読んで頂いていたことから、本日は、これに関連すると思しき記述を以下に抜粋引用してみようと思います。

丸山眞男著 未來社刊『後衛の位置からー「現代政治の思想と行動」追補ー』pp.94‐97
『ちかごろよく取り上げられるようになりましたが、中江兆民の『三酔人経綸問答』という書物が明治二十年に出ております。そこには「洋学紳士」と「豪傑君」と「南海先生」という三人物が登場し、南海先生の家に集まって徹夜で飲みながら国家を論じます。彼等のイデオロギーはそれぞれ違い、しばしば全く正反対になります。結局大議論の末に明け方になって別れるというのが筋書きです。大ざっぱにいうと「洋学紳士」はラディカルな民主主義と、軍備全廃の絶対平和主義を代表し、「豪傑君」は洋学紳士に真向から反対して、権力政治の立場から大陸に対する軍事的進出の方向に進路を見出し、「南海先生」は二人の議論を調整しながらイギリス流の立憲政治と、穏和なナショナル・インタレストの結論に落ち着きます。結局、三人は立場を譲らぬまま別れるのですが、彼等の議論を通じて兆民は当時の日本が選択を迫られていた主要なイッシュ―の見事な鳥瞰図を描いております。が、私がこの書物をここで挙げたわけはそういう内容ではなくて、むしろこの書物の結尾にあります。「二客、竟に復た来らず。」或は云ふ、洋学紳士は去りて北米に遊び、豪傑の客は上海に遊べり、と。而して南海先生は依然として唯、酒を飲むのみ。」これが終わりであります。この結末は、恐らく兆民が意識して以上に近代日本の知識人がその後歩んだ道程を象徴しているように思うのです。つまり明治二十年頃には、まだこういうちがったイデオロギーの持主が集って徹夜で議論するような精神的空気が実際にあった。しかもこの三人の主人公はこの夜を最後として再び会うことがなかったというのです。ではこの三人の「その後」はどうなったのでしょうか。「洋学紳士」のその後のコースは一つは「末は博士か大臣か」と謡われた出世街道を歩んだ入々であり、もう一つはクリスチャンと社会主義者です。もちろん大多数は前者に属し、しかもその中には、明治初期には急進的自由主義者であった人も含まれます。さて、第二の「豪傑君」はその後、中国の上海に遊びます。洋学紳士と同じく海外に赴くわけですが、中国・東南アジア・インドなどに行くのは、洋学紳士の場合とちがって「洋行」とは通常いわれません。したがって、「豪傑君」の人生行路は当然「洋学紳士」と対蹠的であると推定できるでしょう。「上海」という豪傑君の行先は、維新後の一連の叛乱から自由民権運動の急進化の時代までひきつづいた国内の動乱状況に住みなれたために、不断の混沌(ケイオス)の渦中にしかl精神の慰めを覚えないような習性を身につけたーつまり古来の伝統的表現を用いれば「性、乱を好む」-行動的知識人がいわゆる「大陸浪人」に転身して行った過程を暗示しております。彼等は日本の国家および社会体制が急速に整備されて行く状況にうんざりし、幻滅したあげく、そのロマンティックな野望の舞台を中国大陸に求めたわけです。そこでは清朝の帝国の末期症状がまさに果て知れない混沌を惹起しておりました。この「大陸浪人」はのちのラディカルな右翼ナショナリストの原型ですが、明治時代において彼等に一律に「右翼」のレッテルをはるのは早すぎます。西欧帝国主義のアジア浸蝕にたいする彼等の悲憤の叫び、西欧の圧力にたいしてアジア諸国の連帯による抵抗を呼びかける彼らのファンファーレは、実にフランスおよびアメリカ革命の思想で武装していた自由民権運動の系譜のなかにもこだましていました。したがって、ある時期までの現実政治の配置のなかでは、「洋学紳士」と「豪傑君」とが、明治寡頭政府にたいする闘争において、お互いを意外に近い距離に見出した、ということも十分ありえたのです。そうして「洋学紳士」が制度的知識人と在野反対派に分裂してゆくのに対して、「豪傑君」→「大陸浪人」への系列も、やがて日本の挑戦および中国大陸への帝国主義的膨張とともに、一方では、政府・軍部の片腕あるいは下請けとして(密偵!)行動するグループと、他方ではアジア主義をラディカルに貫徹して異端の右翼という運命を辿る人々(たとえば大川周明北一輝ら)との二方向に分裂しました。』

なかなか興味深い記述であると思われるのですが、さて如何でしょうか?
そして今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

陸奥宗光著 中央公論社刊『蹇々録』収録 論説『古今浪人の勢力』より抜粋引用pp.329‐333

論説『古今浪人の勢力』より

『元亀、天正のころ、諸侯八方に割拠してその雄を争うのあまり、いわゆる譜代恩顧のみにてはその勢力の不足を感じたるにや、いやしくも一技一能ある浪人あれば互いに争うてこれを招致、網羅するの風習を生じたれば、一筋の長槍と一片の感状とを有するものあればすべて群豪、諸侯の間に歴任してその功名心を満足せしむるを得、かつ、いやしくもその志を得ざれば朝に黒田の家を去りて夕に加藤に仕え、関東に方人して思うがごとくならざれば大阪に籠城する等、その進退実に自由にして毫も拘束を受くることあらざりしがゆえに、したがってこの時代において利器を抱きてその位を得ずという一種の不平党ははなはだ稀なりしがごとし。慶長偃武ののち、徳川治世十五代の間は、世は既に太平の運に向かい、将軍も諸侯もただ自己の逸楽に耽るのほか、またいわゆる一技一能ある士を用ゆるを要せず、これに加うるに幕府、諸侯もすでに多くの常職あり常禄あるの士族を蓄養し居ることなれば、別に新たに有為の浪人者流を満足せしむるだけの余地を有せず。ここにおいてか所在文武の技能ある浪人の徒は何方にいたるもその位を得ずその志を達せず、沈鬱憤怨のあまりついに一種の不平党とならざるを得ずして、結局或は腕力をもって社会を動乱せんとし或は議論をもって政弊を痛斥し、時の政府を困却せしめたる例、はなはだ少なからず。すなわちかの天草の乱を始めとして由井、丸橋の徒、もしくは山県、藤井の輩、その他大塩平八郎の類のごとき、その志望おのおの自ら相同じからざるものあれども、いずれも有為の才を抱きてその位を得ざるよりも激してもってここに至りたるものなるはまた疑うべからざるものあるなり。

 ゆえに徳川幕府二百五十年間の政治は、大体、智勇弁力を具うる浪人の安排法を工夫せるものに過ぎずというも過言にあらざるなり。今この二百五十年の歴史を三分すれば、初めの一百年は元亀、天正の余勢に乗ずる浪人鎮圧の時代にして、次の一百年はこの浪人が文学、経書に身を託し腰を屈して威勢ある官吏に阿付しもって時勢に同化せんと試みたる時代なり。試みに御家騒動なるものを見よ、多くは志を得ずんば浪人となるべく性格ある者が腰を屈して搦手より官途に就きて生じたるものなるを見るを得べし。而して次の五十年は一旦腰を屈して時勢に同化せんとしたる浪人が、同化はとうていその功名、栄誉を遂ぐるの道にあらざるを覚り、局面を打破して時務を一変しもって風雲に乗ぜんとしたる時代ともいうべきか。而して第三期に現出したる浪人こそもっとも恐るべき腕力、議論兼帯の浪人なりしが、徳川幕府も最初の間こそその慣手段なる政権をもってこれら浪人に対してしきりに圧制、酷刑をもってその種子を絶滅せんとしたれども、のちには到底これを全滅するの至難なるを悟り、その浪人中やや馴致し易き者をば誘惑買収し、もってその不平を慰めんとしたり(壬生浪人、新撰組のごときものすなわちその一例なり)。然れどもいずれもその政策を貫く能わずして徳川政府はついに滅亡するを免れざりしなり。右の由来なれば、尊攘党の本山とし維新功臣の最第一等を占むる薩長両藩はその実、右の不平浪人に多少の糧米を与え、ときとして罪人逃遁の隠れ家を与えたる浪人尻押者たりしに過ぎざりしのみ。ゆえに徳川政府は不平浪人と戦うたるために敗れ、薩長両藩は不平浪人に味方したるために勝てりというも、またはなはだ失当の言にあらざるべし。

もちろん皇政維新の初めにあたり、不平浪人の尻押者たる薩長両藩は無比の功臣として顕揚せられ、したがって政治上最大の権力を有するに至れるは明白の事実なり。然れども島津家も毛利家もこの際徳川氏に代わりて征夷大将軍となり、天下の大権を掌握せんというまでに野心を起こし得ざりしものは何故なるかといえば、当時内外の情勢ははなはだ不利なるものありしならんなれども、この両藩主ともに自己の実才、実力ありし尊氏、信長、秀吉、家康のごとく善悪邪正にかかわらず自己の力をもって自己の主張を実行したるにあらずして、畢竟部下もしくは他の浪人らが主張するところに付随し、ようやくその功を奏したるにほかならざれば、切にいえば天下は浪人の天下にして始めより薩長の天下たるを許さざりしによれりというべし。

かくて尊攘党てふ(という)不平浪人者流の巨魁にして、維新以前にその一身をもって自家の主張の犠牲として非命に倒れたるものその数はなはだ多かりしといえども、維新の際なお引き続き生存したる輩もまた少なからず。すなわち薩の西郷、大久保、長の木戸、広沢という不平党の巨魁および各藩各地に散在したる同輩のごときは、いずれもいわゆる維新の隆運に乗じ、今はみな顕要の権勢を占め、ここにおいてはじめて積年の所志を達し、その劣等なる不平連もその材に従いその分に応じ相当の位置を得るに至りたれば、当時しばらくの間は浪人輩が不平を鳴らすの声も聞こえざりし。然れどもいずれの時代においても天下の不平党を絶滅する能わず。かつ人類の常情として、此に一の不平消滅するとほとんど同時に彼に一の不平を現出するものあるに加えて、薩長一列の不平党がようやく自らその志を得るに至るや、往々放恣専横のことを行い、あたかも昔日彼らが徳川幕府を攻撃したるがごとき咎責を自ら招くに至り、世間再び一種の不平党を生じたるは数の免れざるところなるべし。而してその不平党は、第一に彼らの仲間内より起こりたるこそおかしけれ。その著大なるものを挙ぐれば肥後に神風連あり、佐賀に江藤の党あり、長門前原一誠の徒あり、最後にかつて尊王攘夷という看板を掲げたる不平党の大本尊たりし西郷隆盛は薩肥の子弟を統率して九州地方を擾乱せしことほとんど十閲月の久しきにおよびたり。而してこれらの不平党はいずれも腕力をもって政府に抗敵したれども、幸いにその時の政府は優勢の兵力をもってこれらを剿滅することを得たり。

しかるに明治六年のころ、かの征韓論にて当時の征韓論にて当時の内閣の分裂するや、板垣らが唱起したる民選議院論は腕力以外に一種の議論を有する不平党を招集して政府に反抗せんとするに至れり。この新不平党を組織したる分子は醇駁雑多にして、その立論ははなはだ浅薄たるを免れざりしといえども、要するにその主張するところの自由民権の説によりて専制政治を改革し、もって立憲政府を設立せんと欲するにあり。その内幕よりいえば彼らは自由民権説を仮り薩長政府を顛覆せんと欲するものなることは、薩長政府の元老輩が尊王攘夷論をもって徳川政府を攻撃したるとその揆を異にせざるべし。しかるに人心は古今相同じきものにして、かつて徳川政府の虐遇を受けし薩長政府の元老は、かつて己れらが徳川政府より受けたる圧制政略を施してこれら自由民権の不平党を撲滅せんとし、種々苛察の政策を断行したるこそ不思議の極みなり。すなわち明治十年後、政府が西南叛乱鎮定の余威を仮り自由民権家を窘迫するや、当時各種の国事犯者が鉄窓の下に呻吟せし者その数はなはだ少なからざりしがごときがその一例というべし。然れどもかつて西郷輩に属せる腕力不平党を撲滅し得たる政府も、今や板垣輩に属する議論の不平党を征伐し能わざりしは時勢の力はなはだ大なるを知るべし。しかのみならず開拓使官有物払い下げの一件より、当時政府内の一骨子たる大隈をして朝を去り野に出てさらに一種の新不平党を集合せしむるに至れり。』

陸奥宗光中央公論社刊『蹇々録』pp.329‐333より抜粋引用
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「イノベーション」について思ったこと

おかげさまで昨日投稿分の記事は、投稿翌日の本日までに、かなり多くの方々に読んで頂けました。おそらく、この数は徳島在住以降最高であると云えます。これを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

さて、休日である本日も昨日(土曜日)同様、新たな記事の作成を考え、先週に引き続きP・F・ドラッカー著の『イノベーションと企業家精神』からの抜粋引用にて充てようと考えていましたが、さきに述べた昨日投稿記事の閲覧者数から、この考えを変更し、自身の文章にて記事作成を行うことにします。

昨今巷にて云われている「イノベーション」ですが、これは歴史上の出来事から考えてみますと、端的に理解出来るのは世界各地の「戦争」からであり、これは「イノベーションを行った側が勝利を収める」という法則によって概ね貫かれていると云えます。

それは技術・戦術あるいは双方に云えることであり、我々に馴染み深いものとして武田軍対織田・徳川連合軍の戦いである長篠の戦いが挙げられます。この戦いにより戦場での騎馬武者の有効性が鉄砲により否定され、以降の戦場においては、鉄砲を装備した徒歩兵力がより重要なものとされるようになりました。

こうした一種の相転移のような現象は世界的に見ても概ね普遍的なものであり、欧州においては我が国の関ケ原、大阪冬・夏の陣以後の30年戦争においても引き継がれ、さらには18世紀以降の欧州各地にて生じた諸戦役においても同様であり、こうした過程のなかで鉄砲をはじめとする銃器そしてそれを用いた戦術も勝つために否応なく洗練・向上されていきました。

さらに、こうした流れにくわえ、西欧において18世紀に蒸気機関が発明され、社会のさまざな方面に、この機関が応用・実装化されることにより、その後、19世紀以降の西欧列強による帝国主義時代の舞台設定がほぼ完成されるに至ります。

また、他方で「イノベーション」は技術のみならず、戦術そしてそのさらに下部構造にあたる社会においても同様に行われるものであり、これは18世紀末のフランス革命により、社会がそれまでの王侯貴族による統治から人民によるものへと変化を遂げたことにより、戦術を立案する軍隊においても大きな変化が生じ、これにより端的には、より個々の兵士の自主性・能動性が発揮されるようになったと云えます。そして、それまでの戦列歩兵による比較的単純な戦闘から、より複雑・機動的と云える散兵戦術が可能となりました。19世紀初頭、ナポレオン軍が欧州全土にてその強さを示すことが出来た背景には、こうした社会における「イノベーション」があったからであると云えます。また、これ(ナポレオン軍の強さ)に対する実感から著された著作が、さきにブログにて述べたクラウゼヴィッツによる「戦争論」と云えます。

とはいえ、この散兵戦術はフランス革命以前においても、個々の兵士の自主・能動性に依拠する独立戦争などの場合においては比較的多く見受けられ、現代史に区分される、さまざまなゲリラ戦術もまた、この系譜に含まれるものと云えます。

さて、こうした流れから翻って我が国のことを考えてみますと、たしかに戦国織豊期における鉄砲の採用・普及は世界規模で見ても目を見張るものがあったと云えますが、その後、17世紀以降においては、こうした否応なく変化を遂げなければならないような歴史の流れには背を向け、鉄砲に対しても、その機能(連発性能・射撃精度など)の向上よりも、より緻密な象嵌螺鈿細工を施す対象となっていったと評することが出来ます・・。そして、おそらく、こうした長い目で見ての我が国の行為態度とは、ある程度(現在に至るまで)普遍性を持っているのではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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ネガティブ・ケイパビリティ― 消極的能力・消極的受容力について・・

A「本日も若干帰宅が遅くなりました・・。

さて、昨日投稿のブログ記事に関連して思うことはネガティブ・ケイパビリティ―というコトバであり、これは和訳すると消極的能力、消極的受容力といった感じになるものと思われます・・。

そして我が国の通史的な傾向として、多くの史家、研究者等が指摘するものに上に示したコトバとも関連があると思われる「受容性」が挙げられます・・。

この「受容性」については、今更帰納法的に様々な具体的史実・事実を取り上げるまでもないと考えますが、たしかに我が国の持つ通史的な傾向の一つとして、この性質(受容性)が挙げられるものと考えます。

今までの自身のブログ記事においては、どちらかというと、内面からの「能動性」に多くの価値を払ってきたのではないかと思われますが、しかし、その能動性が如何にして、その場その場の現実に適合、噛み合い、駆動させる形で発露されるのであるかと考えてみますと、実はそこに、こうした消極的能力、消極的受容力の価値があるのではないかと考えさせられるのです・・。

そして、その意味において、多くの試練ともいえる苦行的なもの全般の持つ価値があるのではないかと思われます・・。

しかしながら、おそらく我が国においては総じて、そうした試練、苦行的なものに「のみ」価値を払う、認めるようになり、それ(試練、苦行)をさらに締め付けたり、解放したりといった「制御」(人知に関わる)の部分に関しては概ね、その出来具合が不明な個々の精神をも含めて大らかに扱い、あるいは専ら「神の見えざる手」に委ねているのではないかと思われるのです・・。

また、これにに関しては「いじめ」についても本質的には同様な考えが我が国社会の基層に根強く存在するのではないかとも思われます・・(良い悪いは抜きにして)。

そして、そうした古来よりの人間社会をも包括した我が国の自然観、社会観とは、人間と自然を切り離す傾向が強い欧米的な価値観とは本質的いや最終的にはソリが合わないのではないかと思われます・・。

しかしながら、明治から現代に至るまでの我々の近現代史とは、反動的な傾向を持つ時代(それはいつの時代にもあった)もありましたが、それは概ね段階的な社会の欧米化であったのではないかとも思われます・・。

またそれは国内地域においても時代により濃淡があるのではないかと思われます・・。

そして、そうした視座から現代の我が国の社会を眺めて見ますと、なかなか興味深い光景が広がっているのではないかとも思われるのです・・。

また、それはさておき、ここまで記してして、今回のブログ記事投稿により総投稿記事数が490に到達することに気が付きました・・。

そうしますと500記事まで残り10記事ということになりますが、全くそうした感慨もなく、おそらく500記事に到達しても、何かしら書き続けることになるのではないかと思います・・(苦笑)。

そしてそれが私なりの深層からの能動性により惹起せられた消極的能力、消極的受容力といったものではないでしょうか・・(苦笑)。

いや、案外これが大事であるのかもしれない・・(笑)。

何れにせよ、今後も気負うことなく、思ったことを記し続けようと考えております・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございました。

さる熊本、山陰東部そして昨今の福島周辺にて発生した大地震にて被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」

jtsuruki.blogspot.jp

「ネガティブ・ケイパビリティ―」と「能動・積極性」の微妙な兼合い、関係

A「ここ最近また一段と気温が冬めいてきました・・。
この時期になりますと、どうも書籍を身を入れて読むことが出来なくなるのかもしれません・・(苦笑)。

そのためか、先日読了した「楡家の人びと」以来、これといった著作に出くわすこともありません。

しかしながら週末には大体書店に出向き、何かしら探しておりますので、今後またしばらくしますと、自然と次に読むべき著作に出くわすのではないかと、前向きに考えております・・(笑)。

しかし、そうしたことを意識的に見ますと、この書籍などを読み「面白い!」と感じる源泉とは、一体何であろうか?と思うに至ります・・。

おそらく、この感覚とは変化し続けるものであるのでしょうが、それと同時に、各々場面の状況においても、ある程度、有意な影響を受けているのではないかと思われます・・。

また、それと同時に、昨今、いや、かねてより「書籍を読むことは大事である」といった意見は巷に流布され、また、そうした傾向が社会において生じ続けております。

しかしながら、さきに記した「書籍を面白いと感じる源泉とは何であるか?」という疑問に即し考えてみますと、同じくさきに記した「書籍を読むことは大事である」という社会傾向とは、各々場面の状況として果たして必要であるのか?と思ってしまうのです・・。

つまり「書籍を読むのが本当に好きであるのならば、わざわざ社会の傾向により読書などを促される必要性はない」ということです・・。

また、それに加え、その時々で、自身が面白いと思う書籍を探すことの方が、より一層能動性に即した行為ではないかとも思われるのです・・。

しかしその一方において「書籍を読むことは大事である」という社会傾向の継続により(本当に)書籍を読むことが好きな人が徐徐に増加していくのかもしれません・・。

これは今現在の自身が、この社会傾向により恩恵を受けているとは感じられないことから、幾分斜に構えて見てしまうのかもしれません・・(苦笑)。

いや、あるいはここにもまた、以前投稿したブログ記事にて記した「ネガティブ・ケイパビリティ―」と「能動・積極性」の微妙な兼合い、関係といったものがあるのかもしれません・・。

そして、ここで思うことは、感覚的な私見とはなりますが、様々な行為・行動をとる上で「ネガティブ・ケイパビリティ―」と「能動・積極性」の双方共に重要であったとしても、特に我が国社会においては全般的に古来より「ネガティブ・ケイパビリティ―」優位ではないかと思われるのです・・。

そして、おそらくそうしたことが、国家間の様々な文化・風習・制度の相違の根源に近い部分に横たわっているのではないでしょうか・・?

しかしながら、こうしたことはかねてより云われており、陳腐なことではあるのかもしれませんが、同時に「書籍の選択」を背景の文脈として思ったこととしては、古今類例があるのでしょうが、それなりに意味があり、また、たとえ、なかったとしても物笑いのタネにはなりますので、それなりの意味はあるものと信じ、書き続けます・・(果たして本当そうであるのか?)(苦笑)。

さて、では何故、国々の間において「ネガティブ・ケイパビリティ―」あるいは「能動・積極性」優位の社会が形成されてきたのかと考えてみますと、その理由とは単純に「その辿ってきた歴史にある」ものと考えられます・・。

そしてハナシがここに至りますと「唯物史観」「構造主義」といったコトバが脳裏に浮かんできて、さらに続いて「下部構造が上部構造を決定する」といったコトバもまた浮かんできます。
しかし果たして、こうしたハナシ(歴史、文化などの比較)とは、そこまで公式化出来るものであろうか?とも考えさせる、あるいは疑問を生じさせる「きっかけ」こそが、能動的な書籍の選択、そしてそれに続く読書の意味ではなかろうかとも考えさせられるのです・・。

とはいえ、そうであるからといって我が国社会が全般的に「ネガティブ・ケイパビリティ―」優位であると考えることに対しては未だ(能動的な)疑問を抱けないのが現状であるといえます・・(笑)。

しかし、それも決して悪いことばかりでもないのですが・・それでも悪いところが以前(昭和時代)に比べ目立つようにはなってきているのかもしれません・・。

そうしますと、これは「ネガティブ・ケイパビリティ―」と「能動・積極性」よりさらに奥、基層にある何かの変化、劣化によるものであるのでしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んでいただき、どうもありがとうございます。

さきの熊本、山陰東部、福島周辺にて発生した大地震より被災された地域の諸インフラの早急な復旧、そしてその後の復興を祈念します。」

jtsuruki.blogspot.jp

色々とハナシは飛びますが・・

A「先日投稿したブログ記事にて2013年9月、鹿児島からの帰郷時における原宿付近での出来事を記しました。

そして、現在ではその出来事にある行動を採ることは困難であるように思われます・・。

むしろ、現在となっては、何故、当時(2013年9月)は、そのような行動をスムーズに採ることが出来たのか?の方が不思議に思われるのです・・。

そう思い返してみますと2013年当時の私と、現在2016年の私の間には大きな相違があり、さきのブログ記事に記した状況における対応、反応に限定して云えば別人になってしまったと表してみても決して言い過ぎではないと思います・・。

また、こうしたことをわざわざ(掘り返してまで)言語化、文章化することとは、どこかしら若い頃の悪行を自嘲・自慢半分半分で語るオジサンを連想してしまい、2013年の行為、現在の(そのことを言語化、文章化する)行為、共に我がことながら、あまり感心することは出来ません・・(苦笑)。

では何故、現在私がこの過去の「愚行」を再度ブログ記事の題材としているかのかと考えてみますと、それは、過去の自身(の特に行動)が理解出来ないことは、それが夢や架空の出来事でないのであれば、かねてより当ブログ記事にて歴史(過去の実際の出来事)の重要性を力説、標榜している私としては「灯台下暗し的な盲点」として認識されることにより、もう少し、その意味を考えてみた方が良いと思われるからです・・。

それ故、ハナシは元に戻し、具体的に2013年9月と現在の私の間には如何なる「相違」が認められるのでしょうか・・?

この問いに対し即座に感覚的に思い起こされる、一連のブログ記事にて用いてきたコトバとは「D2病」です・・。

端的に云えば2013年9月の私とはD2病の真っ只中にあり、それに対し現在の私とは、少なくともそこから大分寛解しているのではないかと考えます。

そして、それが両時期の間に見られる顕著な相違であり、また現在では理解不能な程の断層を生じさせる要因であるとも思われるのです・・。

とはいえ、ここで不思議に思うことは、2013年9月の出来事も現在と同様、自身の経験・記憶でありながら、何故、前者に関しては、その行為を行わしめた背景である、当時(2013)の精神、心の現実性を感覚的に内面から理解することが出来ないのであろうか?ということです・・。

そして、そのような状況を異なる視点から考え、さらに説明可能なコトバの抽出を試みますと、そこに「憑き物」「憑依」「Obsession」といったコトバが浮かんできます・・。

また、上に示したこれらコトバも以前投稿したブログ記事にて述べたことがありますが、そうしますと2013年当時の私は何かに「憑かれていた」とも表することが出来るのではないかと思います・・。

では、何に憑かれていたのかと考えてみますと、これもまた以前のブログ記事にて述べたものではありますが「Erdgeist」つまり「地霊」のようなものではなかったのだろうかと思われるのです・・。

また、この考えから更に歩を進めてみますと、この2013年の状態が、これもまた以前ブログ記事に記しましたが、「ハレ」(ハレ・ケガレのハレ)の状態であったのではないかとも思われるのです・・。

さらに加え、それはまた「躁的状態」ともまた、大きな関連性があるのではないかとも思われます。

以上、2013年9月の自身に対し思ったことを述べましたが、この後の反動とはかなり大きなものであり、自身の生命力に少なからぬ危惧を抱く結果となりました・・(苦笑)。

もしも(一定、有限の)生命力の「燃焼」の程度に差があるとすれば、この時の私とは、相対的に見て強く燃焼していたのではないかと思われるのです・・。

そして、再びそうした状態になった場合、今度は上手くヒット・ポイントをずらし、持続可能性を維持することが出来るのではないかと、これまでのブログ記事作成での経験を通じ何やら得たような感じがしなくもありません・・(苦笑)。

しかし、実際のところは本当にそうなのであろうか・・?

また、これも畢竟、主観的仮説の積重ねであるといえば、そうであるので・・(苦笑)
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部そして先日の福島周辺において発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」

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概論と各論・演繹と帰納そしてそれらの調和

A「先日必要に迫られ、かつて専攻した分野の用語辞典を引っ張り出しました。

そして、不図脳裏に浮かんだ、以前学んだものの、現在は意味が分からない、ある用語の意味を調べたところ、不思議なことに辞書引きの最中、その用語の意味が段々と思い出され、辞書引きを終えた時には、その項目を読む前にその大体の意味が思い出されておりました・・。

こうしたことは、不思議であるかもしれませんが、多くの方々もまた似たような経験をされているのではないでしょうか?

また、そこで大事であると思われることは「既にその用語をどこかで学んでいた」ということではないかと思います。

それがなければ、おそらく、その意味を辞書引きのさなかに想起することはなかったのではないかと思います。
また、同時に、かつて学んだことがなければ、それはたしかに「より」不思議、神秘的な出来事であったと思われます。
ただし、それは「思い出す」「想起する」とは、異質なものであるともいえます。

ともあれ、そのようなことから、一面において「学ぶ、研究する」とは、そういったもの、つまり、意識したことを無意識化することではないかと思いますが如何でしょうか?

そして、こうしたことは何も学問、勉強に止まらず、日常生活の様々なことがらについても同様にいえるのではないかと思います・・。

また、それに加え、昨今、その重要性が増していると思われる「専門知識」とは、そのような過程を経て学び、研究することにより得られた「知識の体系」であるのではないかと思われます。

その意味において、特に人体という人類において普遍性を有する分野を扱う医学分野における知識および知識体系とは、その典型であるのかもしれません・・。

また、一方において、歴史などといった古くからの文系学問における知識、知識体系とは、人体、医学などにおけるような普遍性を持つ要素が相対的に少ないため、典型的な専門知識として認識され難いのかもしれません・・(それが現今我が国における文系学問分野軽視の原因ともなっているのではないかと思われます。)。

また、同時に、それらの学問(医学に代表されるような理系学問と古くからの文系学問)を教授、学ぶ上での方法論においても、そうした違いがあるようにも思われます。

つまり、理系学問分野における序論、概論よりはじまり各論に至り、適宜その反復を行うことにことにより、その学識を深めてゆくというような、いわば演繹的な方法・・。

その一方、文系学問分野において多く見られる各論ともいえる個別的な事柄の探求を通じ、その研究分野における概論、全体像を把握しようとするような、帰納的な方法といった違いに、何かしら関連性があるのではないかと思われます。

それらは、無論、双方共に重要ではあるのですが、それらの基本的な方法論の相違とは、ひいては、様々な事柄に対し得られる認識の相違そしてさらに、相互の無理解などにも至ることが多々あるのではないかと思いますが如何でしょうか?

そしてここまで書いていてウンベルト・エーコの「薔薇の名前」の作中人物のコトバ「全体性の中に個別性があり、また個別性の中に全体性があることこそ、世界の調和が示されるのである。」といったことを想起しましたが、これもまた、何かしら上記のことに関連があるのではないかと思いましたが、如何でしょうか?」

ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
また、熊本の地震で被災された地域の皆様の暮らしが早期に復旧、復興されることを祈念しております。

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呉爾羅(ゴジラ)から思ったこと・・生贄・人身御供

A「首都圏および関東地方においては本日夕刻より雨が降り始め、これが明朝にかけては降雪に変化するのではないかとのことです・・。

ここ最近若干この季節にしては温暖と思える日が続いた後、突如こうした天候、気温になるのは、正直あまり嬉しいものではありません・・。

とはいえ、その一方で少し嬉しかったことは昨日投稿したブログ記事が投稿翌日ではあるものの、少なからぬ閲覧者数を得たことです。

これを興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます・・。

そして、本日はそうした状況に促され、ブログ記事作成をはじめた次第といえます・・(笑)。

さて、以前もブログ記事にて記しましたが、ここ最近映画(DVDを含む)を観る習慣を無くしておりましたが、昨日、何を思ったか、かなり久々に映画作品をDVDにてレンタルして観ました。

その映画は1954年に公開されたモノクロ版の「ゴジラ」であり、この作品は、以前何処かで観た記憶がありましたが、最近色々と話題になっておりますので、その元祖を観てみようと考えた次第です・・(笑)。

さて、この作品からの所感、感想とは、先ず、出演されている俳優陣(エキストラを含む)の顔、身体の動きが21世紀の現代と随分異なるのではないかということです。

次いで、作中内のセリフの背景に古来よりの我が国の民俗を(強く)感じさせるということです・・。

一番目につきましては、各々作品をご覧頂いて判断されるのが良いと思います。

また、二番目につきましては、具体的には、ゴジラが当初「大戸島」(架空の島、伊豆七島あたりがモデル?)の漁船を沈め、またその漁場を荒らした状況で村の古老が
「これは古い言い伝えにある呉爾羅(ゴジラ)の仕業に違いない・・」といったところ、島の女性が「また爺様のゴジラがはじまった(笑)」と返し、それに対し古老が「古い言い伝えをバカにしていると、いつかお前ら「あまっこ」(女性)を呉爾羅(ゴジラ)の生贄として差し出さなければならなくなるぞ!」と怒気を含んで言い返していたところです・・。

こうしたやりとりとは、現在では(おそらく)あり得ないのでしょうが、おそらく昭和20年代においては(地域によっては)自然なものであったのではないかと思われます・・。

あるいは、それは1933年(昭和8年)のアメリカ映画「キングコング」の舞台設定とも類似する部分があるとも思われますが・・。

何れにせよ、科学知識が発展する以前、さまざまな自然現象の作用機序が分からない状態において超自然的、人知では解決不能と思われる災害現象が発生した場合、広く我々人類とは、その現象を支配する存在を何かしら見立て、それに対し様々な種類の祈願・祈祷を試み解決を図ってきたようです・・。

そして、その中の一つが人身御供つまり生贄です・・。

以前、私はそうした祈願・祈祷の一つである「雨乞い」について調べたことがありましたが、そこでもこうした種類のハナシには少なからず出くわしました・・。

とはいえ「雨乞い」において何かしらの生贄を捧げる場合とは、概ね一地域にて数段階に種別される「雨乞い」手段・方法の中でも、最終段階近くにて用いられる、いわばとっておきの手段・手法であることが多かったです。

そして、そうした意味からも、この映画内状況(大戸島の漁村)での呉爾羅(ゴジラ)出現の重大さが示されるのではないかと考えられます・・。

また一方、私は今年公開された「シンゴジラ」は観ておりませんが、作中にこうした民俗あるいは土俗性と結び付ける要素は見受けることは出来ないと考えております・・。

とはいえ、そうした要素とは作中に描かなくとも困ることはありません。

しかし、そこで危惧されることは、かつて我々もまた、こうした祈願・祈祷の手段・手法を採っていたことを忘れてしまうことにより、今後、未知の災害現象が発生した場合、(忘れてしまっているので)再び無意識的な歴史での記憶に則り、現代では常識から考えて無意味ともいえる生贄・人身御供を捧げるような始末になるのではないかということです・・。

時折、我々にはそうした傾向が強くあるのではないかと思うことがあります・・。

それ故、さきに記したゴジラ作中内、大戸島の古老の怒気を含んだコトバに関心を持った次第でもあります・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部での大地震および昨今の福島周辺における地震にて被災された地域の早期の復旧そして復興を祈念しております。」

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