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宮崎市定著「アジア史概説」中央公論社刊pp.417-419より抜粋

ヨーロッパにおいても、西アジア、中国においても、古代的統一体を破った中世史の開幕は、異民族の侵入とともに始まる。
日本の場合は、異民族ではないが、武士の勃興という事実のなかに、これとははなはだ類似した性格を見出すことができるのである。

武士は東国を中心として全国的に起きた新興勢力であるが、武士社会は京都朝廷にとって、下層社会というよりもむしろ異質的な存在といった方が適当なものであった。

唐制の衣服をまとった朝廷文化の地方への浸透は、日本の国情に適合せず、外延的にも内包的にもある限度があって、その限度外には多くの異質的なものが、畿内といわず辺境といわず、多量に残されていたのであるが、ことに東国にそれが多かったのである。

この場合武家の指導者である源氏も平氏も、皇室から血統を引いているという系図は問題にならない。源氏は普通に清和天皇の子孫となっているが、頼信の告文によれば陽成天皇の末裔ということになって、結局その系図には仮託があるのではないかという疑問がある。

もし系図が確かであったとしても彼等は皇室の血を引くものとして京都文化の担当者として出現したのではなく、武家の棟梁という資格において登場したのであった。
そして京都方では、東国武士をよぶのに東夷をもってし、感情の上でもほとんどこれを夷狄扱いしていたのである。

頼朝の鎌倉幕府創立は大きな革命であった。それはたんに藤原氏に代わって源氏が実権を掌握したというだけでなく、また政権が京都を離れて鎌倉に移ったというだけでもない。
政治の方針および実情がこれに伴って大回転を行ったからである。

奈良朝、平安朝の政治は、それが実際の障害によって理想どおり実現しなかったとはいえ、その根本方針は中央集権を目標とし、地方を画一的な型式にあてはめていく中国流の郡県制度があった。
この中央集権はとくに財政上に強調され、平安朝の幣政は、過度に地方の財力が地方に吸収されて、それが中央の貴族の奢侈生活に消費される点にあった。

租税が過重であるために地方の開発が立ちすくんでいたのである。

鎌倉幕府はこの点において、地方の財力は、地方に蓄積して、土地の開発をはかる方針をとった。幕府の御家人である武士は地方において所領としての荘園を安堵され、つとめて新田を開拓して資源開発を行ったのである。こうして武家権力の地盤が、地方武士の農耕地にあったため、幕府のもっとも重要な政治は土地訴訟の裁判にあった。

平安朝の政治はその根本となる律令格式をはじめ、辞令も公文書も漢文で書かれていた。

しかし鎌倉幕府の政治は日本語による政治であった。たとえその公文書が、京都文化崇拝の残滓を残して、極度に仮名を嫌い、漢字づくめで書かれているとはいえ、その法制も、あるいは「東鑑」のような記録も、明らかに国語で書き取られているのである。

世界の他の地域における中世は、多くの場合、夷狄による古代文化の蹂躙から始まっているが、日本の場合は、それが固有日本の復活をもって始まっている点に著しい特色がある。

源家三代実朝の和歌が、はるかに万葉の格調を継承し、鎌倉時代の彫刻やその他の美術が、繊細な平安朝の貴族的色彩を抜け出して、むしろ奈良朝あるはさらにさかのぼった飛鳥時代の豪放なおもかげをしのばせるのは、偶然のことではない。

アジア史概説 (中公文庫)

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