鶴木次郎のブログ はてなブログver

主にBlogger での同名ブログのコピペにて作成しています。

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A「これまでに色々と書いてきましたが、今の段階においては、自分を匿名的な存在と仮定して文章を書く方が進みが良いようです。

それとは反対に、自身が属する全てを背負って書く場合、文章を書く際に自身が感じる「圧力」らしきものが大きくなり、それに伴い、文章の進み具合も遅くなるのではないかと思います。

また、今現在、私の場合、文章の良し悪しなどよりも、量を書いてみる方が大事ではないかと思いますので、自身を匿名的な存在として書き続ける方が都合が良いのかもしれません・・。

とはいえ、書いているのは、あくまでも私自身ですので、その主題、内容の選択、推敲などに関しては、ある程度、自分なりにではありますが、緊張感を持っていた方が良いとも思っております・・(笑)。

加えて最近は比較的帰宅する時間帯が遅く、また、読書に関しても前に示しました野上彌生子著の「迷路」以外読んでおりませんので、あまり「これ」といった面白そうなブログのネタを思いつくことが少ないです・・。

これは跳躍の前の収縮であれば良いのですが・・(苦笑)。

そういえば、先日朝、総武線に乗っている際、秋葉原付近から外の風景を眺めておりますと、向こう側に中央線が走る神田川の見えるあたりで「ああ、そうえいえば、このあたりには昔、野上彌生子の出身地であり、且つその著作「迷路」の一つの主要な舞台でもあった大分を出自を持つ明治期の海軍軍人の銅像が立っていたなあ・・」と、不図、思い出しました。

一般的に大分とは、福岡、熊本、鹿児島などといった「いかにも九州!」といったイメージがある地域と少し異なり、あるいは同様に距離を置き、どちらかというと中国、四国文化圏の方に近いような印象があるのではないかと思いますが、如何でしょうか?

そのためか、かつて、この総武線と中央線が分岐するあたりに銅像が立っていた大分御出身の明治期の海軍軍人とは「九州男児」と評される、称されることが少なかったのではないかと思います・・。

また、こうしたことは大分、中津に出自を持つ幕末、明治期の高名な思想家、教育者においても同様であるかもしれませんが・・。

あるいは、その当時(明治時代~戦後)とは「九州男児」という地域を包括するような男性に対する名称、美称とは、少なくとも一般的ではなく、どちらかというと薩摩隼人、山坂達者、ぼっけもん、肥後もっこす、黒田武士などといった感じに、細分化した、より具体的な地域性を感じさせる名称、美称の方が一般的なものとして存在していたのかもしれません・・。

そのように考えてみますと、この「迷路」の著者である野上彌生子女史は、おそらく間近で見たこともあろう万世橋のたもとに立つ同郷ともいえるこの海軍軍人の銅像に対し、如何なる思いを持っていたのでしょうか・・?

あるいは、何かの著作にそうしたことが記されてあるのかもしれませんが・・。」



A「昨日記した記事における「大魔神」とは、その造型モデルが古墳時代の埴輪であることは周知の通りであり、またそのことは以前、ブログ記事においても記したのではないかと思われます。

そしてその埴輪の起源について考えてみますと、それはつい先日投稿した記事「山椒・ミカン科・蜜柑・・」内にて記した垂仁天皇の御代であったとされております(日本書紀)。

日本書紀によると、それ以前の時代においては天皇崩御に際し人間が殉葬されていたとのこと(不思議なコトにその証拠はあまり発見されていない)ですが「それは野蛮である。」ということで、出雲に出自を持つ野見宿禰の言を取り入れ、人間の代わりに土製の人形(埴輪)を充てることにしました。

そして、これを機に野見宿禰は苗字(?)を野見から土師(はじ)に改めるように命じられ、またその一族が、さらに後代、菅原と苗字を改め、そこから学問の神様菅原道真が出ました・・。

ちなみにこの野見(土師)宿禰とは、それ(埴輪作成)以前より土器作成を司ってきた一族ではあるのですが、それと同時に我が国の相撲の祖であるとされております・・。

土器作成を司る相撲の祖とは、なかなか面白い組み合わせであると思われるかもしれませんが、これはその出自たる出雲族の祖とされる素戔嗚(すさのお)について考えてみますと意外と納得させられます・・。

といいますのは、素戔嗚(すさのお)は、高天原にて田の畔を破壊したり、溝を埋めたりといった土にまつわる悪行を行い、それら(他にもありますが)が原因で高天原を追放された後、出雲にて八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したりと、いわば土いじり、格闘といった双方の要素を兼ね備えていると思われますので・・(笑)。

しかし、そこから時代がくだり、菅原道真までになりますと、古来より一族(野見、土師)が持つ(技術、力技的)要素が希釈され、専ら学問分野においてその名が知られるようになるというのは、なかなか示唆的なことではないかとも思われます・・(笑)。

とはいえ、菅原道真の学問分野における名声とは、一面において、さきの技術、力技的といった男性的な要素に対し、何かしらの変態、転移が生じることにより得られるのではなかろうか・・?とも考えさせられ、また、そのように考えてみますと、妙にハナシの筋は通るのです・・(笑)。

さらにまた、こうしたことを記しておりますと、このハナシの筋道とは、古代より現代に至るまで続く我が国の(一つのそして代表的な)男性像のロールモデル、理想像(?)を示しているのではなかろうか・・?とも考えさせられます・・。

そしてそれは時代精神の変化に伴い、それらが持つ原初的要素(技術、力技的)と洗練された要素(学問、詩歌)とのピークの変化(上下?)を示しながら光源氏源義経そして最後は近代に至り西郷隆盛あたりで終息したのではないだろうか・・?と考えさせられますが、さて、如何でしょうか・・(笑)。

また、ここまで記しておりますと、不図、岩波書店刊・バートランド・ラッセル著「幸福論」の一節あるいは西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」というコトバを想起しました・・(笑)。



A「本日のブログ記事の投稿により、記事投稿総数が397となり、とりあえずの目標とする400記事まであともう一息といった状況になります。

そして実際にそうなってみないと分かりませんが400記事に到達しますと自身の内面において何かしら変化が生じるのでしょうか・・?
あるいは自身の外においてもまた、何かしら面白いことが生じるのでしょうか?
あるいはまた、双方共に生じるのでしょうか・・?

しかし、たとえ何かしらそうしたことが生じたとしても、それは自身にとって必ずしも良いとは言い切れないのかもしれません(長い目で見た場合をも含めて)・・。
それ故、今後、上に記したようなことはあまり念頭に置かず、ただ出来るだけ無心になり、もうしばらく記事作成を継続しようと思います・・。
とはいえ、ブログ記事作成におけるある程度大きな区切りに近づきますと、やはり多少なりとも、上のようなことを考えてしまうのが自然なのではないでしょうか・・・(苦笑)?(果たして本当か?)

また、不思議なことに、そうしたことを考えはじめますと、そちらの方に想念が奪われる、集中するためか、肝心のブログ記事の着想が思うように浮かんできません・・(苦笑)。

そして、現在記しているこの文章とは、一通りそうした想念に捉われた後「本日分のブログ記事は書籍からの抜粋にしようか・・。」とあきらめ半分に考え始めた頃「いや、それであれば、そうした現在の想念そのものをブログ記事として記せば良いのではないか?」と考えを改め、如上のような次第となっております(笑)。

とはいえ、ここまで記しますと、今度はそこから先の文章が思い浮かばず、一端キーボードから手を離し、ひとしきり何かしらの着想が浮かぶまでボーッとすることになります・・(苦笑)。

また、ここでジタバタして「何かしらの着想が浮かぶのではないか?」と考え、傍らにある書籍などに手を伸ばすことは往々にしてあまり良い策ではなく、逆にその書籍に飲まれてしまい、着想どころではなくなることが私の場合少なからずあるようです・・(苦笑)。

そして、このように文章の着想が浮かぶまでの経過を着想として扱い、それを記していますと、果たして如何なる着想が浮かぶのであろうかと考え、そのままを記しておりますと不図思い起こしたのは、昨日投稿したブログ記事への反応であり、これはまた私にとって新鮮なものであり、下に示す考えがそこから得られました・・。

昨日投稿したブログ記事最終部近くにて「我が国における(一つのそして代表的な)男性像のロールモデル、理想像とは近代の西郷隆盛で終息、終焉したのではないか?」といった意味のことを記しました。

しかし、もしかすると、それは太平洋戦争の敗戦(以降しばらく)まで万世橋に立っていた銅像のモデルもまたそうであったのかもしれません・・。

とはいえ、この戦後に撤去された銅像の周辺、つまり東京都千代田区には、他にも戦前からの銅像が比較的多く存在し、本日も大山巌品川弥二郎銅像の横を通りました・・。

では、なぜこの万世橋銅像とは撤去されなければならなかったのでしょうか・・?

これには諸説あり、現在なおその確たる背景、真相とは見出されていないようです・・。

あるいはまたその背景、真相とは見出されると面倒な何かがあるのでしょうか・・?

とはいえ、おそらくそこには近代日本史あるいは我が国国民性の暗部といったものが少なからず隠されているのではないかと思われますが如何でしょう・・?