鶴木次郎のブログ はてなブログver

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異郷での経験について・・

A「現在我々が日常的に用いている日本語について考えてみますと、時折不思議な感覚をおぼえることがあります。
それは「はたして自身は日常的に用いている日本語を正しい意味において使っているのか?」ということです。
こうした感覚は、自身と類似した言語を含む様々な文化を保持する人々との間での会話、交流においては生じる可能性が低いですが、そうでない人々、つまり外国あるいは他地域、地方に住む人々との会話、交流においてはそうした感覚をおぼえる可能性が高いと思われます。
そしてその感覚とは、概ね違和感、不安などとしてあらわれ、また同時に、それは自身が慣れ親しんだ文化地域から遠く離れるに随い、その違和感、不安などの度合いは増すのではないかと思われます。」


B「・・ええ、そういった感覚とは、旅行などで帰ることを前提として外国、他地域にしばらくの間滞在する際の感覚とは違いますね・・。
また、そうした感覚とは古来より存在するものであり、たとえば有名なところでは阿部仲麻呂が唐で詠んだ歌がありますよね・・・。
皮肉なことに結局彼の帰国は叶わなかったのですが、あの歌は望郷の念を歌ったものであり、その意味で帰ることを前提とした旅行などとは本質的に異なる何かがあると思います。
そしてその望郷の念を起す要因こそ、先ほどAさんがおっしゃった様々な文化の相異より生じる違和感、不安なのではないでしょうか?」


A「そうです、それはおっしゃるとおりです。
また、それと同時に異郷にてある程度の期間生活し、そこで適応して(してしまった)結果、自身の内面に変化が生じた後に帰郷しておぼえる違和感、不安などもまたあると思われます。
そうしたものは、たとえば昔話であれば浦島太郎であり、あるいは歴史上においては第一次世界大戦ベトナム戦争、太平洋戦争などにおける帰還兵において、そうした具体例が多く挙げられると思います。
ですから人間がある程度の期間在住した地域から移動して何かに従事するということには単なる物理的な移動、経験だけでは片付けられない何かがあるのではないでしょうか?
こうしたことは、同一地域にてずっと暮らしてきた方々には理解しにくい何か重大なものがあるのではないかと思います・・。」


B「なるほど、たしかにそれはそうなのですが、一方においてそうした他地域での生活を通じて人間とは相変態的な成長を遂げるという考えもまたあると思います。
ですから、そうした違和感、不安を持ちながらも、それを徐々に克服してゆくという過程こそが人間の精神の成長とも見ることができると考えます。
そして大小の社会の変化、変革とはそうした経験を持つ個人を核として広がり為されてゆくのではないでしょうか?」

A「そういわれるとそうなのですが、ただ、そうした経験を経て内面に変化が生じた結果、社会より疎外され、行き場を失うといったこともまたあるのではないかと思います・・。
そうした場合は、そうした変化を隠し、表層的に外の環境に適応したような態度を取ることにより、どうにか解決してゆくのでしょうが、結局のところそれは外見を取繕うことであり、長い目で見れば決して良い解決策であるとは思えないのです・・。
ですから、そうした異郷での経験による変化とは、良い結果となることもあれば、同時にそうでない場合も少なからずあるということではないでしょうか?」


B「・・まあ、たしかにそうした経験が悪い結果となる場合も少なからずあるとは思いますが、おそらく現在のところそれに対し全面的な解決策は見出されていないし、また今後も難しいのではないかと思います。
また、そうした経験も歴史を経るごとに蓄積されてゆくと思いますので、それを基として学び、人間というものをより深く知る以外ないのではないかと思います。
しかし、我が国の場合「人間を知る」ということの多くの部分を外国からの知見の流用で間に合せているのではないかと思われます・・。
とはいえ、この「人間を知る」ということが結局のところ全ての学問、研究の究極的な目的ではないかと思いますが・・。
そして、その切り口、見方の違いが文系、理系をはじめとする様々な学問分野の相異なのではないでしょうか?」


A「たしかに「人間を知る」ということが重要であり、また、ある程度対象が明瞭である理系学問分野におけるそれについては我が国はその古くからの性質により、かなり優秀であるとは思うのですが、さきほどBさんがおっしゃった歴史の経過により蓄積されるような人文社会的な人間に対する普遍的な知見に対しては何故だかわかりませんが、かなり消極的あるいは冷淡というか、とにかくそうしたものの明示を避ける、よくわからない傾向があると思うのです・・。
そしてそれは我々日本人の様々な文化的事物の抽象化によっても見出すことが出来るのではないでしょうか・・。
その意味において我々日本人の文化全般とは理知的というよりも情感的であるように思われます。」


B「・・ううむ、その分類の仕方はニーチェの「悲劇の誕生」にて述べられている芸術様式の分類であるアポロン的、ディオニソス的の概念を彷彿とさせますが、たしかにそうした要素は少なからずあるかもしれません・・。
では、そうすると我が国において理系学問がその古くからの性質に基づき、かなり優秀であるということはどのようなことなのでしょうか?」


A「ええ、それに対する解釈とは、我々日本人の古くからの性質である即物性が知性的な方向へ展開した結果が理系学問分野における優秀さであり、逆に知性的な展開を経ない即物性が普遍的な知識に対する消極性、冷淡さといったある種の情感的な要素に結び付くのではないかと思います。ですから、これらの源泉は類似あるいは同一なのではないでしょうか?」


B「・・なるほど、それでしたらその過剰な情感的要素とは、教育によって是正できるということなのでしょうか?」

A「ええ、おそらくある程度は是正、改善できるのではないかと思います。
無論それは漸進的なものではあると思いますが・・。
そしてその基盤となるものが、やはり理系、文系問わずどのような形であれ、強要されない自然なかたちでの教養なのではないかと私は思います。」

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