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鶴木次郎のブログ はてなブログver

主にBlogger での同名ブログのコピペにて作成しております。

科学、再現可能性そして文系学問について

A「今まで大体半年程度ブログを続けてきましたが、その中で自身で書いたものは全体の30%程度です。
ですから、現在で50幾つかが自身の書いたものであり、その他は大体書籍の引用、抜粋か動画となっています。
つまり純粋に自身の書いたものは、ブログを書き始めてから概ね3~4日に1回の割合で投稿、更新しているような感じになります。」

B「はあ、それはなかなか書いているのではないかと思います。
また、大体一つのブログが以前おっしゃっていたように2000字程度であるとすれば、これまでに10万字以上は書かれたことになりますので、これは400字詰原稿用紙で250枚ぐらいにはなりますから、まあ少なくはないと思いますよ・・。」

A「なるほど、原稿用紙で250枚程度にはなるのですか・・。
それでしたら、そこそこ書いたのかもしれませんね。
しかし、今度は出来るだけ自身の文章の割合を増やしつつ200回目の投稿まで行ってみたいですね(笑)。」

B「ええ、そうした努力は続けられるといいと思いますよ。
それにしても先日Aさんからお聞きした「ロジコミックス」の中でウィトゲンシュタインが兵棋演習で使用するコマ(兵棋)を作成し、そこから実体と、それを象徴するものの関係性に思いが至るという描写がありましたが、あれは私が読んだ書籍では、たしか交通事故の裁判か何かで事故の実態を再現するための道路と自動車のミニチュアでその発想が浮んだと記されていましたけれど実際はどうなのでしょうかね?」

A「ああ、それでしたら私も以前読みました。
たしか「哲学大辞典」の中で同じような記述を読んだことがあります。
しかし、まあ大意はあまり損なっていないと思いますし、また、それはあくまでも創作、創造であり、あまり気にすることもないのではないかと思います・・。
また、そうしますと私が現在書いているブログにおいても類似したことを行っていると思いますし・・(苦笑)。
あるいは、それはまったくの嘘というわけでもありませんし・・。
ただ、一方において、これが何か実証的な論文などである場合は無論マズイとは思いますがね・・。
また、そういった何といいますか、遊びの部分の有無あるいは多寡が散文と論文の大きな違いではないでしょうかね・・?」

B「たしかにいわれてみるとそれはあるかもしれません・・。
ううむ、遊びの部分の有無ですか・・。
そうしますと、特に理系の論文などはデータから文章に至るまでおそらく細心の注意を払って書かれなければならないのでしょうね。」

A「ええ、私もそこまで深くは知りませんが、とりあえず理系の論文などはあくまでもデータありきなのです。
ですからそのデータがどのような過程、工程で生じたかは極めて重要なのです。
理系分野の研究において最も大事なことは再現可能性ですから・・。」

B「再現可能性ですか・・。
たしかに理系分野では、それがなければ何をもって実証性があるのかわかりませんからね・・。
しかし、だからといって再現可能性があるものだけが実証性があり科学的ということではないとも思いますが・・。」

A「ええ、それはおっしゃる通りであると思います。
また、これは決して悪くいうつもりではないのですが、理系の研究者などは、その人が優秀であればあればある程、その科学的な方法による実証性といった考えを信じきっているフシがあるのではないかと思うことがあります・・。」

B「その点、昔ながらの人文社会科学系の研究などはスパッと何かを実証することは殆ど不可能に近いですからね・・ある意味羨ましいです・・。
ただ、そうした理系学問的な明快さばかりが有益であり、ひいては社会にとって有用であるというような考え方は、なんといいますか全体主義的な社会と大変親和性があるように思えてしまうのですがね・・。」

A「ええ、Bさんのおっしゃることはよくわかります。
社会ダーウィニズム、優生学などですよね・・。
そして、それはおそらく双方学問分野における方法論の違いに大きな原因があるのではないかと思います。
そして、そういった人文社会科学系学問の一種の歯切れの悪さも楽しめるような社会の方が、精神的にゆとりがあり、遊びの部分があって持続可能性、伸代もあるのではないかと思うのですがねえ・・。
しかし一方、そうした考えは、特に我々日本人にありがちな勤勉性と相反するものではないのかとも思いますが、これはどうなのでしょうかね・・?」

B「ううむ・・さきほどのウィトゲンシュタインでの話しとからめて敷衍しますと、おそらく理系学問分野においては文字、数字、グラフあるいは画像などといった実体の状態を示す象徴的なものがより実体に密着しており、一方、人文社会科学系の学問分野で用いる文字、文章などは、それが示す実体、観念との間に多分、理系学問分野に比べゆとり、遊び、つまり認識の多様性が生じる隙間みたいなものがあるのではないでしょうかね・・?」

A「・・なるほど、それはたしかにおっしゃるとおりであると思います。
そして、何故現在の科学的学問の直接的な起源とされる西欧の学問分野において、古典や詩が重要視されているのかも、そういったところに理由があるのかもしれません・・。」

B「そうですね・・。
日本の古典や詩が現在流行の理系学問分野と結節することは多分なさそうですし、また、あったとしても、それはかなり珍妙なものになりそうですので、現在のこの状況も夏目漱石小林秀雄が慨嘆したように仕方がないものなのでしょう・・かね?」

jtsuruki.blogspot.jp