鶴木次郎のブログ はてなブログver

主にBlogger での同名ブログのコピペにて作成しています。

根源的な変化と継続的な文章の作成の関係について・・

A「これまでに480記事以上を既に投稿しているため、本日に関しては特にブログ記事の作成、投稿を行わないでも良いのではないかと不図考えましたが、あとになり500記事到達を前にして書けなくなる可能性も否定できないため、とりあえず何か書きはじめようと思いたちました・・(苦笑)。

しかし、このような、いい加減ともヨコシマともいえる考えに基づき書きはじめてみても、何かしら書いておりますと、それなりに主題、テーマは思いつくようです・・(笑)。

さて、そういえばここ最近は映画をレンタルDVDをも含め観ていないことに気が付きました・・。

以前の鹿児島在住時は週末によく映画をDVDにてレンタルして観ておりましたが、その後からは不思議なことに、その習慣がほぼなくなっておりました・・。

しかしそれは「日常の生活が映画よりも面白いからである」といった考えには結び付きません・・。

それとは異なる次元にある、自身の根源的な「欲求」において何かしら変化が生じたからではないかと思われます・・。

また、こうしたことは、ある程度の年齢になりますと、頻繁に生じることはないように思います。

そして、変化が生じた後になると、むしろ変化以前の状態、嗜好を不思議に思ってしまうようなところもまた、あるのではないでしょうか・・?

そして、このような現象を「憑き物が落ちた」と表するのではないでしょうか?

そのように考えてみますと、現在、どうにかブログ記事を継続的に作成を出来ている状態とは、「何かに憑かれているのではない!」と断じ切るのは困難であるように思います・・。

加えて、昨春に強烈に感じた「文章を書くことが出来ない!」という思いは、さらにそれ以前の、ある程度文章を書くことが出来ていた時期と比べた結果であり、それは正直なところ、精神的な圧迫・苦痛を伴うものであり、漠然とした生命力の枯渇を感じさせる自身としては極めて恐ろしいものでした・・。

そして、その当時に比べますと、現在の状態とは、どうにかブログ記事として継続的に文章の作成が出来ていることから、かつてほど強烈な危機感(生命力の枯渇)を感じさせる状態ではありません・・。

とはいえ、あくまでも、これまでの継続的なブログ記事作成とは、その次(大学での研究支援などの職に就くこと)を目的とした、創造力の枯渇を防ぐためのものであり、その目標とは今現在、残念ながら達しておりません。
あるいは、今後それを達した場合においても、何かしらの方法に依り、こうした文章の作成そして発信は継続したいと考えております・・。

そして、それは、克己心といった積極的・前向きな性質のものではなく、どちらかというと、自身の鹿児島在住時における週末の散歩のように、自身の精神衛生を保つための消極的、防御的な性質のものであると判断されます・・。

しかし、そこで面白いと思うことは、こうした消極的・防御的な手段に拠って積極的といえる創造性の保持を図っているということです・・(笑)。

とはいえ、こうしたことは、さまざまな運動などの練習目的においてもいえるのでしょうが、このように、その「流れ」をこれまでの文章の流れにより書いてみますと、なかなか面白いものであると感じると同時に、命題、反対命題の止揚揚棄により(創造的な)新たな統合された意見を得るといった考えにも一脈通じるのではないかと思われることです・・(笑)。

しかしながら、これもまた一つの仮説ですので、その実相とは、今後更なる検証を通じ行っていくのが良いのでしょう・・。

また、最後に不図思ったのは、もし今現在のブログ記事の継続的な作成が、何かに憑かれて為し得ているのであるとすれば、それは一体何に憑かれているのでしょうか・・?

あるいは、それは単に自己の行ってきた結果、自然に付随するものであると判断しても良いものであるのだろうか・・?

また、そうであると判断出来る自信とは、どこに由来するのであろうか・・?

しかし、現時点の自身としては何れでも構わず、とりあえず500記事まで作成するのみではあるのですが・・(笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部での大地震により被災された地域の今後の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」

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継続的な着想、(循環論法・トートロジー)、弁証法について・・

A「総投稿記事数も480に到達し、500記事まで残すところ20記事未満となりました。

そこで少し前を振り返ってみますと、直近の適当な区切りであった450記事到達から現在に至るまでは思いのほか早いものであったと思います。

そして、このままのペース(1日1記事)にて書き続けることにより来月12月初頭の500記事到達が予測されます。

とはいえ、この先如何なることが生じるか分かりませんので、とりあえず500記事到達までは「継続的な着想」が枯渇しないように書き続けようと考えております・・。

さて、その「継続的な着想」ですが、これは昨日投稿のブログ記事にて扱った「循環論法」あるいは「トートロジー」(これも以前ブログ記事にて扱った)と深く関連するものであり、さらにこれらは特に文系学問分野における思考方法に類縁関係を持つのではないかと考えます・・。

その一方において、文系学問分野における思考法として即座に思い浮かぶのは「弁証法」(ヘーゲル以降)ですが、この弁証法において定義される命題、反対命題もまた、その各々(命題・反対命題)の生成過程を考えてみますと、おそらくさきの「循環論法」「トートロジー」に拠るものが多いのではないかと考えられます・・。

そして命題・反対命題であれ、それらの生成過程とは、その次の段階ともいえる弁証法による議論よりも、内面性が強く、明らかにされることが少ない、無意識のうちに生成が為される部分が多いのではないかと思われます・・。

「循環論法」「トートロジー」とは、本質的にそうした性質を帯びていると私は考えます。

そして我々は日常において、そうした思考の回転(「循環論法」「トートロジー」)の様相を言明、記述の何れであれ、明示しようとはあまり考えません・・。

むしろ、そうしたことを試みるのは「変」であるとされるのが通常ではないでしょうか・・(笑)。

また、この点について、我々日本人とは、相対的にその傾向が強いのではないでしょうか?

それ故、我々には「常識」といった感覚はありながら、議論により構築された汎用性を持つ「哲学」といったものに未だ持つに至っていないのではないかとも考えられます・・。
あるいはそうしたものが苦手であるのかもしれないです・・。

これを別言すると、個別的ともいえる思考の回転(「循環論法」「トートロジー」)と「弁証法」の議論の間に大きな溝がありながら、論理的な議論に対し何らかの知的な理解を示さなければならない場合においては、感情的な能力ともいえる「共感」の(名人的ともいえる)駆動により、どうにかその場をやり過ごすことが多いといった感じです・・。

これはたしかに一種のユーモアではあるのかもしれませんが、そればかりではやはりダメであると思います・・。

とはいえ、それでも「循環論法」「トートロジー」といった議論、思想のタネともいえるものが大事に扱われないのは、それらが持つ一種の悩んでいるような感じ、暗さとも見られる内面性からではないでしょうか・・?

そうしたものよりも、それを表層的なユーモアにていじり倒す方が余程「見ていて」気持ちがいいことは間違いありませんが・・(笑)。

しかし、それだけでいいのでしょうか・・?

あるいは、実のところそれが(我が国における)適当な価値の配分であるのだろうか・・(苦笑)。

また、国民性とは、こうしたところにも表れるのかもしれません・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本における大地震、山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」

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閲覧されたブログ記事から・・

A「これまでに作成したブログ記事も390を越え、あと10記事の投稿に満たず、どうにか400記事に到達します。
また、以前は366記事(閏年であるため)を目標として定め記事作成を行ってきましたが、それに到達しますと、今度は、その次のキリのいい数として400記事を目標として定め、現在は、その(到達に近い)途中であるといえます。

また、最近は読んで頂いている記事も最近投稿のもののみならず、大分前(たかだか一年程度ではありますが・・)に投稿した記事がどうしたわけか多く読んで頂いていることがあり、こうした現象とは、もしかすると、そこに何かしら現在(さまざまなレヴェルにおける)との関連性の指摘が為されているのではないかとも考えさせられます・・・。

そして、そのようなことを頭のどこか片隅に置き、何かしら文章を記していると、どのようなメカニズムに因るものであるかわかりませんが、つい先日に投稿した「「山鹿灯篭まつり」から・・」のようなことが生じるのではないかと思われます・・(笑)。

とはいえ、このようなことは、決して語義通りの意味で「科学的」であるとは到底いえません・・。

しかし一方において、こうした現象もまた少なからず世の中に存在することは、大抵の方々が理解、納得していただけるのではないかとも思われます・・・。

このようなことは不思議といえば不思議ではあるのですが、同時にそこに偶然・必然いずれかのコトバであれ、それを以って(現象に対し)充たそうとすると「どうも違う・・」、「いや、それだけではない!」といった感じを受けてしまうのです・・(苦笑)。

あるいは、もしかすると、心のそのあたりの動きに「創造性」といったものが脈打っているのかもしれません・・(笑)。

しかし、このようなことを(ボンヤリと)考える(ことができる)ようになった時期とは、私の場合、そこまで古くはなく、昨日のブログ記事における鹿児島在住の頃(特に後半)であったと記憶しております・・。

この時期とは、現在になり考えてみますと、さきに記した「山鹿灯篭まつり」記事のようなことが(比較的)継続的に生じていた時期であり、そして、おそらくそのような(継続的な)現象を自我が感知するところから、一種の自意識の肥大化が生じ(D2病)その結果、何かしら精神に(良い悪いは抜きに)変化が生じるのではないかと思われます・・(笑)。

また、こうしたことを現在言語化を試みているということは、次に生じるそれに適切に応対する為であり、同時にそれを「望んでいる」ともいうことが出来ます・・(笑)。

つまりここで重要なことは「それ(自意識の肥大、精神の変化)に適切に応対するということが大事なのであり、それを望むということは、決して悪いことではないのではなかろうか?」ということです。

そしてそのように考えてみますと、反語的に在鹿児島時代の私とは「それ(自意識の肥大、精神の変化)に適切に対応出来ていなかったのではないだろうか・・?」と考えさせられるのです・・。

あるいは、そうしたこともまた、当時の私は薄々ながら感じ取っていたのではないかとも思われます。

そして、何れにせよ、どうにかそれ(自意識の肥大、精神の変化)に押し潰されず生きてこれたことに対し薩摩、鹿児島の風土そしてその地域社会そしてそこでお世話になった人々(鹿児島が地元でない人々をも含む)に対し、少なからず恩義を感じざるを得ないのかもしれません・・。

ともあれ、以降もまたしばらく記事を書き続けます・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域における出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」

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「楡家の人びと」から「迷路」「神聖喜劇」などの長編について・・

A「昨日は風が強くまたそこそこ寒いなか、外屋外にいる時間が長かったためか、風邪をひいてしまい、今現在多少頭が重く、体全体が気怠い感じがしております。

それ故、本日の記事更新は止めにしようと考えましたが、これまでに培った習い性とは、意外と強いものであるようで、こうして本日分の記事作成に取り組んでいる次第です・・(笑)。

また、面白いもので、一旦記事作成に取り掛かりますと、多少頭の重さ、気怠さも忘れるか、軽減されるようであり、こうしていくうちに、何かしらの主題が見つかるのではないかと思われます・・。

さて、先日より読んでおります北杜夫著「楡家の人びと」は、残すところ第三部のみとなりましたが、これは明日早々に購入し読んでみようと考えております。

そして、おそらくこの調子にて読み進めますと、来週中には全巻読了に至るのではないかと思われます。
そうしますと、また久々に野上彌生子著「迷路」以来の長編読了ということになりますが、この比較的新しい読書記憶に基づき、両著(「楡家の人びと」、「迷路」)を比較してみますと、後者は前者に比べ思想的あるいは内面の情緒的な記述の分量が多く、そのことにより、著作内容の理解が多少困難となり、また、そのことから読み進む速度においても相違が生じるのではないかと思われます・・。

あるいは、これはあくまでも私見ではありますが、各々著作に対象年齢を設けるとすれば「迷路」の方が、多少その年齢層が高くなるのではないかとも考えます。

また、そのような視点にて考えてみますと、我が国の長編小説の一つの金字塔?ともいえる大西巨人著「神聖喜劇」は一体どのような扱い(対象年齢)となるのでしょうか・・(笑)。

この著作に関しては端的、一言にて感想を述べることが困難であり、ただ「面白く、大変勉強になると思いますので機会、興味がありましたら、是非読んでみてください。」といった感じになります・・。

また、私も機会がありましたら、この著作全巻をもう一度読み、そして、その面白いと思われる部分をタイムリーに抜粋引用してみたいとも考えております・・。

しかし「迷路」にても、そうした傾向はあると思われますが、特に、この著作(「神聖喜劇」)に関しては、そうしたことを行っていると「何かしらの問題が生じるのではないか・・」といった危惧もまたありますが・・(苦笑)。

そして、その危惧を含めて、この著作を大変魅力的なものにしているとはいえますが・・。

また、何といいますか、我が国の社会、歴史の深層、古層からの問題点を作中にて抉り出し、あからさまに提示しているという意味において「神聖喜劇」、「迷路」とは類似した要素を持っているともいえます。

とはいえ、前者の方がより強烈であるとは思いますが・・(笑)。

そして、そこから正直なところ「神聖喜劇」は女性向けの著作ではないと考えます。

また、そのよう考えてみますと、不図疑問に思ったことは、加藤周一著「日本文学史序説」下巻にて野間宏著「真空地帯」という「神聖喜劇」と類似した主題を扱った著作に関して割合長く述べられているのに対し「神聖喜劇」には一行も触れられていないのは、一体何故であろうか・・?ということであり、これは単純に出版年によるものなのでしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
先日の博多駅前の道路陥没事故の復旧、さる熊本での大地震、山陰東部での大地震にて被災された地域の出来るだけ早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。」

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歴史力・予言力と合理性?・・

A「相変わらずブログを続けているようですね。
また、最近閲覧者数も増えたようで良かったですね(笑)。
しかし、それはそうと、求職活動の方では何か動きはありましたか?」

B「・・どうもありがとうございます。
お陰さまで、最近閲覧者が増えましたが、しかし、これはこれでプレッシャーらしきものもありますよ・・(苦笑)。
また、求職活動でも相変わらず動いておりまして、昨日も夜半に応募書類を作成し、一番近い24時間空いている郵便局まで行き、発送してきました・・。
そういえば、ここ最近数ヶ月は応募書類を発送する際に心の中で「頼むよ神様、こんな人生だったんだ、どうか幸せな夢を見させてください・・」と心のなかでつぶやくようになりました(苦笑)。
ともあれ、今後また何か動き、変化がありましたらお知らせいたします。」

A「・・・そうですか、わかりました。
そういえば、これまでBさんが作成した対話形式のブログ記事での登場人物で「これは私のことかな?」と思える人物が出てきますが、あれは何人かそのモデルの方々がいるのですか?」

B「ええ、そうです。
私のブログ記事での登場人物は概ねA、Bですが、このうちの片方は私自身がモデルであり、他方には、そのモデルの方が何人かおります。
とはいえ、この登場人物キャラクターとは、そのモデル一人一人から抽出したものではなく、毎回それらを適宜複合、合成したものとなっています。
まあ、それでも、さきほどのAさんと同様、モデルとなっている方々は読んでいらっしゃれば「これは多分、私のことかもしれない・・。」となっているのではないかと思いますが・・。」

A「はあ、なるほどねえ・・。
何だかそうしたキャラクターの表現、書き方とは「記紀」に描かれているスサノオオオクニヌシヤマトタケルのようですね・・。
それは編纂者から見て類似したような複数の人格を一人の人格にまとめ上げて物語の登場人物とすることです。
しかしまあ、こうしたことは、おそらく世界各国の神話、伝承などにおいて類例が少なからずあるのではないかと思いますが・・。」

B「・・なるほど、それはこれまでに気が付きませんでした・・。
また、たしかにそういわれてみますと、ほぼ無意識ではあったと思いますが、そうした要素はあるかもしれません。
そうしますと、私はそれを知らずに「記紀」あるいは、その他の神話、伝承のような表現方法、書き方を採っていたということになるのですね・・(笑)。
それに加えて、こうした経緯の可能性を示唆されると「そのようなことは、ある程度合理的に考えれば、大体共通した方法を採るであろうから、まあ当然といえるのではないか。」と考えるか、あるいは「そうした歴史を越えた共通、類似性の間には何らかの原因、あるいは関連性があるのだろうか?」と考えるかにより、その後の考えとは、ずいぶん変わってくるのではないかと思います。
そして、一般的な意味における合理性に基づいて考えると、おそらく前者の考えに近いものに落ち着くことが多いのではないでしょうか?」

A「・・うん、まあ多分そうでしょうね(苦笑)。
さきほど私も自分の思ったことをいったわけですが、それに対してBさんからそのような反応がくるとは思っていませんでした(笑)。
しかし、多分、おっしゃる通りこうしたことは案外重要ではないかと思います・・。
たしか柳田國男がそうした能力のことをどこかで「予言力」と書いていたように思います・・。
「予言」といいますと非科学的であり「怪しい」と思われそうですが、それは過去の歴史に対する様々な深い理解、知識に基づいた、これから起こる出来事への理解および対応の仕方ともいえるのではないかと思います・・。
我々日本人のこうしたことに対する認識、理解の仕方については、かねてより多くの研究者、著述家が記しておりますが、全体的な傾向としては、たしかにBさんの仰る通り、まあ、前者つまり合理性に基づいてなされているのではないかと思います・・。
とはいえ、この「予言力」とは、前者的な考え方も重要でしょうが、おそらく後者的な考えを思考の熱により煮詰めることによって精製、生成されるのではないでしょうか?」

B「・・はあ柳田國男が「予言力」と記していたのですか・・。
また、そうした考えとは、今現在の様々な情報が錯綜して存在している我が国であるからこそ特に重要であるのかもしれません。
加えて、さきほどAさんが私のブログ登場人物キャラクターに関して指摘されたことは、一種の「抽象化」であると思います。
そして「様々な歴史的出来事に対する抽象化の仕方の傾向」などにおいても国あるいは地域毎に特徴があるのかもしれません・・。

A「・・ええ、そういったことは、たしかにあるかもしれませんね。
また同じ国、地域などにおいても、時代が変わるとそうした傾向はまた変わってくるのではないかとも思います・・。
これはブログの文章を書く際においても同様であるかもしれませんが、どういった深度あるいは高度から事象を眺めるかによって、眺望が異なり、それにより書く文章も変化してくると思いますので、時代、国、地域における「抽象化の仕方の傾向」の相違とは、そうしたことに因っているのではないかと思います。
そして、そうした「眺望」が何故、その時代、その場所において成立したかということを考えてみるのもなかなか面白いのではないでしょうか(笑)?」

「一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。
皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。
また、現在公募、求人等に応募しております。
現在大変困難な状況でありますので、この状況から助けていただきたく思います。
どうぞよろしくお願いします。」

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記事 出汁が具材に染込むとき・・形而上・形而下の現象

A「おかげさまでこれまでに作成したブログ記事も320となり、その総閲覧者数も85000人に到達しました。

今後どの程度ブログ記事の作成を継続するかわかりませんが、とりあえず1年分、365記事程度までは作成してみようかとユルく思っております・・。

また、多く閲覧されるブログ記事とは、直近に投稿したそれと強い関連が示されるものであることが多く、これは大変勉強になり、ブログ記事を作成する際の大きな原動力となっております・・。

とはいえ、ここ最近は(さきのブログ記事にて示した)歴史系の著作以外特に読んでおらず、また何か面白い小説でも探してみようと考えております・・。

こうして考えてみますと、少なくとも私の場合、何か物語、小説などを読んでいる時期の方が、そうでない時期に比べ、自身のブログ記事の作成がスムーズになされるような感じを受けます。

また、これまで一応300記事以上継続して作成することが出来た背景においても、同様のこと(物語、小説を読む)がいえるのではないかとも思えます。

そして、さらには、これまでに経験した議論もまた、同様の効果をもたらしているのではないかとも思えます。

そのように考えてみますと、これらの要素が複合的、相互作用的に存在していた時期とは、現在のブログ記事作成をどうにか可能にしている原因、根拠であるのではないかと思われます・・。

また、それらを比喩的に表現してみますと、カレーや煮物などで、その具材に味がしみ込むのは、加熱している間であるよりも、加熱を止めた後であるといったことに類似しているのかもしれません・・(笑)。

とはいえ、そこで大事なことは、それが「本当の熱」が加えられている(た)ということではないかと思います。

それは我々日本人が古来より得意とする類感、感染呪術の進化発展の延長上とも見做すことが出来る「模倣」(のみ)によっては同じ効果を得ることが困難ではないかと考えます・・・。

また、それと同時に如上のように類似したものとして物理的現象を用い精神的現象を「説明」することは出来るのかもしれませんが、それはあくまでも「説明」であり、効果をもたらす実効性を有するものではありません・・。

そういった意味において即自的、対自的といったコトバの意味もまた多少深く理解出来るのかもしれません・・。

そして、それは様々な国、地域において原初の時代より徐々に様々な文化、事物が発展を遂げ、繁栄し、そしてそれが衰退するといった歴史上に多く見られる普遍的な現象においても関連があるのかもしれません・・。

とはいえ、それもあくまでもさきに述べたように「説明」であり、歴史上の微細な一主体的存在(個人)の典型的な社会における姿ではないのかもしれません・・。

しかし、あるいはこのような思考経路を辿りがちであるということもまた我が国の特徴であるのかもしれません・・。

そのように考えてみますと、何を為すにおいても、その主体性、能動性が重要であるのではないかと考えさせられます・・。

しかし同時に、そうであるからといって、主体性、能動性とは、主体的、能動的、意識的に「模倣」をするということとはまた別ではないかと考えさせられます・・(主体性の向かう先とでもいいましょうか・・?)。

それ故、主体性、能動性を得るためには、何といいますか意識的な模倣ではなく「知らないうちに没頭していた」というような経験が「多く」必要なのではないかと思いますが如何でしょうか?

そして、そういったことを忘れ、ただ計量的データによる利害損得に基づき考え、意識化し、行動を決定するようになると、さきのブログにて引用したマックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の最終章のコトバがどうも想起されるのです・・(苦笑)。

ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
また、さる四月の九州、熊本の大地震により被災された地域の早急な諸インフラの復旧そしてそれに続く復興を祈念します。」

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周辺機器の進化と学問の価値との関係・・

A「ここ最近のブログの一日の閲覧者数は、以前とあまり変わらず、大体300~500人程度となっております。

以前用いていました対話形式の文体から現在の独白形式の文体に変えたことにより、多少閲覧者数に変化が生じるかと思いましたが、現在のところ、そこに大きな変化はありません。

ただ、これは気のせいであるかもしれませんが、閲覧された記事の動向を見ておりますと、以前に比べ、記事を深く読まれているのではないかと思うことがあります・・。

そして「深く読む」といいますと、現在再び読んでおります「迷路」上巻は100頁程度まで進みました。

今回のこの読書においては、以前あまり深く考えず読み飛ばしていた事柄、たとえば作中に出てくる現在では聞くことがない語句、事物の意味をインターネットなどで調べたりして読み進めています。

そうした、一種精読に近い読書、読解とは、多少面倒くさい反面、新たな疑問、発見などが出来、なかなか面白いものであるとも思います。

そういえば、以前より、インターネットなど情報技術の進化、普及に伴い、大学など高等教育機関での文系学問の意味、価値が大幅に減じた、減じるといった内容を何度か聞いたことがありました。

たしかにインターネットの普及以前であれば、さきに記した精読、読解の作業においては、図書館等を利用し、記載されている語句、事物の意味、背景を調べ、解釈し、読み進めてゆくのが一般的であったと思われます。

それがその後、PCあるいはその端末機器を広く一般的に使用することにより、かなり簡便にこうした精読、読解作業が概ね出来るようになったことは、たしかに「長足の進歩」であるとは思います。

しかし、そうであるからといって文系学問の意味、価値が減じたということにはならないと思います。

それは一般的に考えてみて、理系の分析機器が進化し、その操作が簡便になったからといって、理系学問自体の意味、価値が減じることがないのと同じことではないかと思います。

それ故、文系学問の場合、周辺機器の進化発展により様々な情報の入手が簡便になるからといって、その学問自体の意味、価値が減じると考えることには、そうした評価をくだす方々が当初よりその学問分野に価値を認めず「本質的な興味」を持ちえないことから、そのような評価になりやすいのではないかと思います・・。

そして、こうしたことは私を含め、多くの方々が様々な事物に対し、そうした評価を比較的安易にくだしているのではないかと思われます。

また、それに加え、そうした評価とは、インターネットの普及により、個々人が、より一層、そうしたメカニズムによる評価を諸事物に対しくだし易くなってきているのではないでしょうか?

その意味において、かなり原始的、単純であるのかもしれませんが、私は紙媒体の書籍の読解には何かしら(不可知な)大きな価値、意味があるのではないかと思います・・。」

ここまで興味を持って読んでいただいた皆様、どうもありがとうございます。

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創造と想起

A「これまで1年間ブログ記事作成を継続してきましたが、これといった変化、進化などは見受けられません・・。

おかげさまで閲覧してくださる方々は増えましたが・・。

また、一連のブログ記事作成のため、多少の無理はしたようにも思いますが、それでも心身に多大な負担をかけ、これまで一連の記事を作成してきたというわけでもありませんので、その過程の中に現在の私では認識しがたいものの、わずかながらの(良い)変化が継続、蓄積して生じていた(る)のかもしれません・・。
そうであればウレシイのですが・・(笑)。

とはいえ、そうした変化などが現在の私に対し、どのような効果、作用をおよぼしてきたのかとは、主観的には認識しがたいものであるのです・・。

ただ、昨年この時期の私とは、自身の文章を作成することを望みながら、それが出来ない状態であり、(おそらく)それが主要な原因で心身に苦痛を覚え、その状況を打開するため当時周囲にいた方々の勧めにしたがいブログ記事作成をはじめた次第でした。
このことは以前も何度かブログ記事にて記したことがありますが・・。

そうした状況から、ここまで1年間、ブログ記事作成を継続することが出来たことは、特に称賛に値するわけではなく、もし、そうであるのならば、それ以前の私とは、日常的に細かい試料作製、機器分析をしたり、研究分野での論文などを読んでおりましたので、そちらの方がおそらく苦労したのではないかとも思います・・(苦笑)。

しかし、その一方において、自身のコトバによる文章を作成し続けたのは、まさにこの1年間でした・・。

・・何かしら中身がある文章を継続的に作成するということは、もしかすると、案外むつかしいものであり、それは創造的行為と見做しても良いのかもしれません・・(であるからといって、私の記したブログ記事全てに中身があるとは限りませんが・・(苦笑)
・・しかし一方、全ての記事に中身がないとも思いませんが・・(笑))。

しかし、何れにせよ、私のブログ記事(特に初期~中期)に多く見られる過去に為された対話などを文章形式にて記す場合などは、主に創造というよりも想起という行為であり、そこにはあまり創造といった要素は必要としないのかもしれません・・(苦笑)。

とはいえ、では「創造」という行為がどのようなものであるかと考えた場合、創造においても、その原点においては「想起」される比較的明瞭な存在が(複数)精神の中に浮きつ沈みつ存在するのではないでしょうか?
そして、そういった存在の精神内部における混淆、反応などにより、創造が為され、それに形状、文字、旋律などが付与され、様々なカタチで表出に至るのではないでしょうか?

そして、そうした存在の精神内部における実在性の強さ、認識の深さがもしかすると、創造と想像を別つものであるのかもしれません・・(ここには個人の知性、悟性?が大きく関与するのではないかと思います・・。)。

また、そのように考えた場合、前衛的なものを創造することを欲している場合においても、それが時代、地域を通じ持続的に強い印象をヒトに与えるために創造者は、その精神の内部に「想起」される比較的明瞭な存在を(複数)有している方が良いのではないかと思います・・。
また、別言すると、それが教養なるものの一側面ではないでしょうか?

これを読んで頂いた方々はどのようにお考えになるでしょうか?

ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

また、さる四月の熊本における大地震、その後の同地域を含む九州での大雨による被災が軽微であり、大震災からの復旧、復興作業が支障がなく、速やかに為されることを祈念します。」

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高等教育と我が国社会の特質について

A「最近また寒い日が続きますが、どうですか、元気でやっていますか?」

B「どうでしょうか・・それにしてもやはり首都圏、関東は寒いですね・・。
また、こう寒いと、どうも気分が滅入ってくることが時折あります。」

A「そうですね、寒いと色々と心身に対してマイナスなことが多いですね・・(苦笑)。
しかしAさんは北海道にも住んでいたことがあるのですよね?
その当時は大丈夫だったのですか?」

B「・・あの当時はまだ若く、あまりマイナスなことを考えることも無かったと思うのですが、それでも北海道はやはり冬季では日光量が少なく、そのせいか多少鬱気味になったような気もしました・・。
その経験から私は日光量が少なく、寒く、積雪量が多い場所は体質的に合わないことを知りました・・(苦笑)。」

A「そうでしたか・・しかし、そういったことは案外重要であると思いますので、求職活動などでは留意した方がいいと思いますよ。
それはそうと、求職活動の方はその後どのようになっていますか?」

B「そちらの方は相変わらず動いてはありますが、今後の動向はイマイチ読めませんね・・まあ、求職活動など概ねはそういったものであるとは思いますが(笑)。」

A「・・先が読めないといえば、日本の景気や高等教育を巡る環境などは今後どう変化してゆくのでしょうかね・・?」

B「・・それは少子高齢化の進行に伴い日本の経済的力は衰退し、また高等教育を巡る状況も同様な方向に変化してゆくのではないかと思います・・。
しかし、その対策として理系および資格系の教育を拡充し、それに加えて高等教育初期の導入部における教養教育を充実させることにより、どうにか乗越えることができるのではないかと考えますが・・。」

A「まあ、理屈的にはそうなのでしょうが、しかし理系、資格系の件は置いておいて、教養教育の充実などはそう簡単にいくものであると思えませんけれどもねえ・・。
つまり教養教育の真髄である学問研究への能動性を生じさせ、それを強化することは、一朝一夕に出来ることではないと思うのですが・・。
また、このことはこれまでの様々な歴史が、その証左を我々に多く与えてくれていると思うのですがねえ・・。」

B「ええ、それは仰るとおりであると思うのですが、同時にそれは地道に漸進的に行っていく以外にないのではないかと思います。
まさに「学問に王道なし。」といったところであると思いますが、これを改善する具体的な施策として、小規模の理系、資格系に加え教養系の学費の安い公立大学を増新設することではないかと思います・・。
このたとえは変であるかもしれませんが、アメリカでいうコミュニティーカレッジみたいなものに相当するのではないかと思います・・。」

A「理系、資格系と教養が併存する小規模の学費の安い公立大学ですか・・。
そうしたものがアメリカにはすでにあるのですか?」

B「ええ、あちらでは看護師、歯科衛生士などの資格や高等教育導入部における教養教育などで有名なコミュニティーカレッジ多く存在しますので、現在の大学が有している機能を分割し、その一部をこれらに移譲することができれば案外上手くゆくのではないかと思いますが・・?」

A「しかし、現在の大学がいわば既得権益として保持しているそうした機能をその新増設した小規模大学に移譲しますかね・・?
我々の国で行われるそうした改革とは、これまでのところ結局、既得権益保持層と、何というか原理的改革派との抗争によってその意義、本質が換骨奪胎されて、改革としての意味を為さないように作用してしまうのではないかと思うのですが・・。
それこそBさんがこれまでブログで何度か書いている大岡昇平の「俘虜記」における収容所社会でかなり明晰、痛烈に描かれていると思うのですが・・。
しかし、そう考えると、実は本当に問題なのは、そうしたかねてよりの我が国社会における普遍的な社会問題を示唆する文学、著作がいくつも存在するにもかかわらず、そういった問題が一向に明瞭化されないところなのかもしれませんね・・?
私は別に我が国が嫌いではなく、むしろ好きであると自覚しているのですが、そうであるからこそ、この一面において凝集性が強く、識字率が古来より高い我が国の社会が、そういった文学、著作に目を向けないで、またその内容、テーマを共感を持って理解しようとしないことが不思議で不思議で仕方ないのです・・。
また、我が国においては文学者、著述家で政治的意見を持つ方の多くが嘲笑、批判の対象になることには、それと同じような原因があるのではないかと思うのです・・。
そういったことから、私を含め我が国の国民性の一つとして自己愛性パーソナリティー障害に近いものがあるのではないかと考えさせられるのです・・(溜息)。
これは特に海外の著者が描く我が国国民性において多く見られ、それらは戦前、太平洋戦争中での体験に基づいているものであるのですが、こうした性質とは体制が変化してもそう簡単に変化するものであるとは思えませんので精神的古層、持続する重低音のように、現在なお強く示唆するものがあるのではないかと思うのです。
そして欧米の方々は、そうした方法をも用いて冷静、客観的に対象国に対する対応、政策を考えていることは今更いうまでもありません・・。
加えて、我が国の組織におけるモラハラ的なものも、その多くはこうした自己愛的な性質に由来しているのではないかとも思います。」

B「ええ、仰ることの意味はよく分かります。
そうした性質を搦め手より徐々に改変、進化することを試みるものが、さきほどの理系、資格系そして教養教育の充実なのですが・・どうでしょうかね?」

A「うーん、現在の我が国における既得権益層と改革派との抗争は、言い換えると世代間の抗争になるのでしょうか?
それとも、かつて時代のブルジョアジーとプロレタリアート間の階級闘争のような枠組みになるのでしょうか?」

B「・・それは何ともいえませんが、とにかく何らかの実効性を持つ改革は今後必要不可欠なのではないかと思えますが・・。」

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発信と着想のセンスについて・・

A「ようやくといいますか、遂にといいますかとりあえず、これまでに投稿した記事が350に到達することが出来ました・・。
そして、とりあえず次の目標は1年分、365記事までブログ記事を書いてみようと思います。
これまで一連のブログ記事を読んで頂いている皆様、今後ともどうぞよろしくお願いします。

本日の首都圏は日中気温が上昇し、若干蒸し暑く感じました。
また、それとは別であると思われますが、昨今の東京とは参議院議員選挙のためか、何となく一種騒然とした雰囲気があるように思われます。

そうした意味において、やはり東京とは、現在なお、我が国における様々な流行、潮流が(最も)顕著に表れる場所、つまり時代の先端といっても良いのかもしれません・・。

また、もう一つ面白いことは、そうした流行の現象、具体的状況が動画サイトなどでほぼ同時に見ることが可能であるということです。

そして、こうした現象を動画サイトなどにより国内外各地にてほぼ実況として見ることが出来るようになりますと、さきに述べた「東京が流行、潮流が(最も)顕著に表れる(あるいは各地に先がけて生じる)場所、つまり流行の先端」ということにも今後、変化が生じてくるのかもしれません・・。

このことを少し進め異言しますと、情報技術の進化発展により、国内地域間に存在する様々な発信力の相違が、ならされ、平坦化してゆくということになるのではないかと思われます・・。

そして、こうした技術の進化発展により「既存の地域間の力関係」の平坦化が為され、一種リセットされたような状況になりますと、その次の段階において、一体どのような要素(あるいは複数のそれ)により、新たな力関係が決まり、そして、どのような経緯を経て安定に向かってゆくのでしょうか?

それは可視化出来そうなものに例えますと、高温の炉内にて焼成されつつある陶材内部でミクロレベルにて生じていること、あるいは日本列島を俯瞰した状態で1467~1615の大名、領主の支配領域の変化、変遷を高速度にて見ているようなものであるのかもしれません・・。

とはいえ、このような流れ、動き(動態というのだろうか?)とは、古今様々な社会の歴史においてよく見られることであると思います。
しかし、そうした流れ、動きのモデル内のどの部分が、我が国の現状にピッタリと適合するものであるかは分かりません・・。
(これは本当に難しいことではないかと思います・・。)
しかし、同時に現在とは、少なくとも10年程前(2006あたり)に比べますと社会全体として、より多くの熱を帯び、不安定な状況であるということは云えるのではないかと思います・・。

多分、こうしたことは決して嬉しいハナシではないと思いますが・・(苦笑)。

しかしながら、考えようによれば、こうした熱を帯び、不安定な時代にブログ記事を通じて何かしら発信することが出来ているということは、決して悪いということでもないのかもしれません・・。

そして、ここまで書いていて不図思うことは「こうした状況のなか、ブログ記事の作成は継続したまま、それを書く場所、地域が変化したら、一体どのような変化が生じるのであろうか?」ということですが、これに関しては、今後すぐに変わることはないと思います・・。

また、それと若干関連するかもしれませんが、昨年この時期に記したブログ記事「八幡宮喜捨放生会について」を読んでみますと、その文体は現在に比べ硬く、また着想は現在のそれよりも多少深く、鋭いのかもしれません・・(苦笑)。

こうした着想とは、現在になり思い返してみますと、異なる地域に住むことにより、少しずつ生じ、蓄積してきたのではないかと思われます・・。

また、その意味において、現在の私(の精神)とは、良く云えば当時とは異なる言語の層におり、悪く云えば若干、着想の源泉が枯渇しているのかもしれません・・(苦笑)。

とはいえ、同時に最近作成した記事の中にも「悪くない出来かもしれない・・。」と思われるものもいくつかありますので、まあ、さきに記した程には深刻なものではないのかもしれません・・(笑)。

しかし本当に「継続は力なり」なのでしょうか・・(笑)?
以上の点、皆様はどのようにお考えになるでしょうか?

また、ここまで興味を持って読んで頂いていた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月の大地震により被災された熊本地域の今後の速やかな復旧そして、それに続く復興を祈念しております。」


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